坂本繁二郎生家 (75 画像)
この建物は、代表作「放牧三馬」で知られる近代洋画の巨匠、坂本繁二郎が生まれた家である。坂本家は代々、久留米藩に仕えた武家で、御馬廻役組として久留米藩に仕えていた。江戸時代初期に、坂本家はこの地を与えられ、1909(明治42)年まで住んでいた。この界隈通りは、京隈小路と呼ばれていた。生家は木造で、一階部分は茅葺屋根で、二階部分は瓦葺屋根となっている。
1910(明治43)年に繁二郎は結婚し、母と共に東京へ転居するので家を売りに出したところ、坂本家と親交のあった山田家が生家を購入した。以来、建物は2002(平成14)年市へ寄贈されるまで、山田家によって維持管理された。この家は、久留米に残る唯一の武家屋敷とて、市指定の文化財になっている。建物は2006(平成18)年に人の手によって丁寧に解体され、調査の結果、この家は、江戸後期から1874(明治7)年にかけて建てられたものであることが判った。生家は、繁二郎が20歳の時、1902(明治35)年頃の姿に復原している。
近代洋画の巨匠、坂本繁二郎は、明治15年(1882)、旧久留米藩士の子として、京町に生まれた。
繁二郎は日本画を嗜む父や兄の影響を受けて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きであった。母は優しく怒られることもなかったので、母と二人暮らしとなった後は家中が絵だらけであったと伝わっている。
10歳になって久留米の洋画の先駆者、森三美の画塾に入ると頭角を現し、青木繁(荘島町生まれ、重要文化財「海の幸」「わだつみのいろこの宮」などの作品を残し、28歳で死去)とともに神童と呼ばれるほどになった。以来、青木とは生涯を通じて友人であり、良きライバルとなる。
一方、父を早く亡くした坂本家の生活は苦しく、進学を諦め、開業して間もない久留米駅の駅員になろうか、などと考えたときもあったというが、森三美の紹介により図画の代用教員などをして暮していた。
繁二郎は20歳の時、先に上京して絵を学んでいた青木繁の上達ぶりに衝撃を受け、上京を決意する。この家には母が一人で残り、余った部屋を貸間として繁二郎に仕送りをしていたが、1910(明治43)年、繁二郎が27歳で結婚するのを機会に、母も東京へ転居した。この家はその際600円で売却されている。その後、画壇での地位を固め、二科会の創設に参加。39歳でフランスに渡り、帰国後は終生久留米、八女に住み、美術界に大きな功績を残した。「帽子を持てる女」、「放牧三馬」など数多くの作品を制作した。
74歳で文化勲章を受章し、1969(昭和44)年に87歳で亡くなった。
市内にはこの生家以外に坂本をしのぶことができるものとして、文化センター内の旧アトリエがある。また、多くの作品が石橋美術館に所蔵されている。

●坂本家の歴史
坂本家は摂津国(現大阪府)の出身である。筑後との関係は筑後一国の大名となった田中吉政の家臣として三河国(現愛知県)岡崎より下って来てからである。坂本家は田中家の重臣で、一族には久留米城代となった坂本和泉重憲などがいる。繁二郎の先祖は和泉の弟である孫兵衛重征で、元和6年田中家が断絶すると浪人になるが、1645(正保2)年に孫にあたる半兵衛義政が150石の知行をもつ御馬廻組として有馬家に召し抱えられる。これが有馬家の家臣としての坂本家の出発である。この半兵衛義政から数えると繁二郎は9代目にあたる。
各世代のなかで目立つのは4代與八郎が御郡上奉行を勤め御先手物頭まで累進し、5代金三郎も御勘定奉行を務め御先手物頭までなったのが上げられる。また、繁二郎の父である8代金三郎は1867(慶応3)年に幕府の海軍操練所に入り勝海舟の指導を受けたのが知られている。長男麟太郎の名は勝麟太郎(海舟)に因むものである。
坂本家は絵心がある家であり、祖父與八郎、父金三郎、兄麟太郎はいずれも絵を残している。襖に描かれた絵もその作品の一つである。坂本の絵心はこれらの人々の系譜のなかにあるものであろう。
【坂本家略系譜】
①半兵衛義政―②與八郎義知―③半兵衛―④與八郎―⑤金三郎―⑥孫右衛門―⑦忠次郎(與八郎)―⑧金三郎―⑨繁二郎

●京隈小路・小松原小路
久留米城下町は毛利秀包(ひでかね)代、田中吉政・忠政代を経て、1621(元和7)年久留米城に入った有馬豊氏によって大規模に改造され建設された。本丸、二の丸、三の丸、外郭の城郭部分とその外側に武家屋敷地、町人地、寺社地などが配置されている。
城外に置かれた武家屋敷地の一つとして京隈小路がある。元和9年に出来たもので、京隈村の田畑を武家屋敷地としたものである。
東西に貫く道路を軸に5本の南北道路を配し、その道路に面して計画的に武家屋敷を配置している。南端部分にその区画が乱れた部分がある。これは本丸などの城郭の東にあった柳原侍屋敷が度々、水害を受けるため、1677(延宝5)年にこの地に武家屋敷を移転させて出来たもので、小松原小路と呼ばれている。坂本家は京隈の一部であるこの小松原の侍屋敷に入るようである。

●坂本家の屋敷地と建物
坂本家の敷地は間口18間、奥行25間あり、南面する屋敷地だった。延宝8年と天保年間城下図に同じ位置に描かれていることから、江戸前期から幕末まで屋敷地の位置が変わることはなかった。
坂本家の屋敷地は拝領屋敷なので、建物は自前で家作することが原則であった。今回の発掘調査では現存建物の地下に古い建物の痕跡を確認できなかった。これは建物の建て替えがなかったということではなく、礎石を置き、それに柱を立てるという建て方であったと考えられている。建物は南面して建てられ、土塀で囲まれていた。屋敷の北側は畑などに使われていたようである。

1882(明治15)年3月2日 久留米藩士坂本金三郎・歌子の次男として現久留米市京町六丁目224番地で出生。
1886(明治19)年4歳 父金三郎が39歳で死去。
1891(明治24)年19歳 3月 両替尋常小学校(現篠山小学校)卒業。
4月 久留米高等小学校入学。青木繁と同級。
1892(明治25)年 10歳 この頃、森三美につき洋画を習い始める。
1901(明治34)年4月頃19歳 久留米高等小学校の図画の代用教員となる。教え子に石橋正二郎がいた。
1902(明治35)年9月20歳 東京美術学校に在学していた青木繁とともに上京。小山正太郎の不同会に入る。
11月 青木繁、丸野豊と三人で妙義から信州にかけて写生旅行に行く。
1904(明治37)年7月22歳 青木繁、森田恒友、福田たねと千葉県安房郡富崎村の布良海岸に写生旅行に行く。
1907(明治40)年25歳 東京府勧業博覧会及び文部省第1回美術展覧会に入選。
1909(明治42)年4月27歳 青木繁が坂本繁二郎留守宅に二、三か月居候する。
夏ごろ いとこの権藤薫との結婚準備のため久留米に帰る。久留米に滞在中、青木繁と再会する。これが青木と会う最後となる。
8月14日 久留米市京町の生家を手放し、出て行く。
1910(明治43)年 1月4日28歳 権藤薫と結婚する。母と3人で上京。東京府北豊島郡高田村亀原36番地に新居を構える。
1912(明治45)年30歳 文部省第6回美術展覧会出品の「うすれ日」夏日激石激賞する。
1921(大正10)年7月39歳 クライスト丸で横浜出航し、渡仏する。
1923(大正12)年41歳 「帽子を持てる女」「眠れる少女」などを制作。
1924(大正13)年8月31日42歳 オリンピック選手団と香取丸で帰国。久留米市櫛原町2丁目に仮寓
1928(昭和3)年46歳 この年、久留米市櫛原町5丁目に転居する。
1931(昭和6)年5月49歳 福岡県八女郡三河村緒玉(現八女市)にアトリエ落成。
7月 八女郡福島町(現八女市)稲富の町営住宅に転居。
1932(昭和7)年50歳 第19回二科美術展覧会に「放牧三馬」を出品。
1942(昭和17)年60歳 還暦を記念して二科展で作品を特別展示。この時上京し、「母の像」を公表。
1948(昭和23)年4月66歳 青木繁記念碑除幕式が行われ、建設の辞を捧げる。
1956(昭和31)年74歳 文化勲章を受章する。薫夫人とともに上京。
1959(昭和34)年77歳 八女市及び母校篠山小学校に作品を贈る。
1969(昭和44)年7月14日87歳 八女の自宅で薫夫人をはじめ、家族に見守られ死去。


・福岡県久留米市京町224-1
公式ホームページ

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