木下杢太郎生家(木下杢太郎記念館) (79 画像)
1835(天保6)年に建築された家屋であり、木造瓦葺の平家建65.175㎡(19.75坪)で創建以来居室、及び台所として使用されてきた部分で、市内において現存する最古の民家である。
木下杢太郎、本名・太田正雄(1885~1945)は伊東市湯川の商家に生れ、東大医学部へ進み皮膚科を専攻し、後に東大医学部の教授となり、かたわら1907年与謝野寛主幹の詩歌雑誌「明星」に参加、日本近代詩に異国情緒と江戸趣味を融合した耽美的詩風をそそいた。

●おいたち
1885(明治18)年、商家「米麹」の末子として生まれた杢太郎は、地元の東浦尋常小学校、伊東高等小学校(現・伊東市立西小学校)へ通った。
その後は「医者にしたい」という家族の強い意向により、中学校からドイツ語を教えていた東京の独逸学協会中学(現・独協学園)へ進学する。
成績は優秀で、一時期、伊東高等小学校で代用教員を務め杢太郎の学級を担当した兄・賢治郎は「一般に學力は不良であったが、優れたのが四五名あり、中につき弟と中野といふのが傑出し、不公平の譏を虞れて中野に點をかせがせたが、やはり他の受持の人の點が勝つので弟は首席であった。」と述べている。

僕は五つになっても六つになっても小學校に入らなかった。なぜ學校に行かないのかと聞かれると、先生がこはいからと返事したさうである。(中略)
僕の一人の姉は東京に行ってゐたが、東京から歸って来て、是非學校へはひらなければいけないと僕をさとした。そんな事は僕自身としては覺えてはゐないが、姉の話では、到頭それなら學校へ行くと納得したといふ。其代り學校へ入っても目をつぶってゐると云った。姉は僕をおぶって學校へ連れて行った。背の子供は到頭目を開かなかったと、後になって聞かされたことがある。(小學校時の回想)


ぼおす、こおす。
山は紫。
ぼおす、こおす。
梢の小枝。
ぼおす、こおす。
海の白浪。
ぼおす、こおす。
暮れゆく汽笛。
ぼおす、こおす。
山の三日月。
ぼおす、こおす。
冬の夜の風。
蔵の戸のかたこと鳴りて
街道に人はとだえつ。
ほおす、こおす、裏の社に、
音をたたず、小さき梟。
その時は、十歳にてありき。
今はわれ、支那奉天に。

●木下杢太郎と伊東
伊東は小生の生れた所で、もし大地に乳房というものがあるとしたら、小生に取ってはまさにそれです。
随筆「伊豆伊東」より

●文学への傾倒
杢太郎は絵画を最も愛したが、文学も好み、中学の頃から同級生とこんにゃく版雑誌を発行したり、「地下一尺集」と名づけた文集を執筆したりしていた。
東大在学中の1907(明治40)年、与謝野鉄幹・晶子が主宰していた新詩社に参加するようになると、江戸趣味と異国情調を特徴とした詩を多数発表し、北原白秋らと共に耽美派詩人として名を馳せた。この頃から文学に傾倒するようになる。

●「木下杢太郎」の誕生
当初、杢太郎は本名の「太田正雄」名義で作品を発表していたが、杢太郎が文学に傾倒することを快く思わない家族からの圧力があり、「木下杢太郎」というペンネームを使うようになった。その由来については、後年、「桐下亭随筆」の中で次のように述べている。

「自作の詩に「杢太郎」といふものがあった。一農夫のむすこである。畠を耕して、一日累々として果實を著けたる蜜柑樹の美しさに感動し、その根源の不思議を尋ねむが爲めに地下一尺の處を掘るといふのが序篇の筋であった。即ち(注・木下杢太郎という名は)「樹下に瞑想或は感嘆する農夫の子」の意味である」

●幅広い活躍
杢太郎は詩人として最もよく知られたが、その活動は詩だけにとどまらず、戯曲・小説・随筆・評論・翻訳など、多岐に渡った。特に、戯曲は高い評価を得ており、代表作「南蛮寺門前」は山田耕筰によって作曲・上演された。また、日本語の他、ドイツ語・中国語・フランス語・ポルトガル語など、5ヶ国語以上を修得していた杢太郎は、様々な言語の作品を翻訳している。キリシタン評論・美術評論などの評論も多く、優れた文明批評家でもあった。

●当時の文壇の様子(「我々の通って来た時代」より)
一種の自然主義派が擡頭した。(中略)
詩は藤村、酔茗のあとで、蒲原有明、薄田泣菫が世の視聴を集めた。歌は明星一派の風が最も廣く行はれた。殊に與謝野婦人のものが天下を風靡した。(中略)
自然主義はその後継者によりて一般化したが醗酵力は弱くなった。その爲め谷崎潤一郎、永井荷風の作風が際立って見えるやうになった。(中略)
さういふのが明治四十年から大正の初めへかけての有様であった。

●杢太郎の絵画と百花譜
初め画家を志した杢太郎は、その道を断念した後も、生涯に渡って絵を描き続けた。素描、水彩、水墨の作品がその大半を占め、「杢太郎」とは別に「葱南」の雅号を用いている(葱は仏教の聖地・葱嶺(パミール高原)、南は日のあたる所の意。葱嶺の南にはシルクロードが通っている)。
風景画・植物画が多く、特に牡丹を得意とした。色紙に描いたものは、たびたび友人知人に贈呈している。

〇百花譜
百花譜と呼ばれる一連の植物画は、1943(昭和18)年から亡くなる直前までの2年あまりで描かれたにもかかわらず、872枚という膨大な枚数におよぶ。戦時中のため洋罫紙に描かれたその絵は、多くが野草の類で華美なものは少ないが、どれも精緻をきわめ、見る者を惹きつける。
「やまゆり」は昭和20年7月27日(金)、死の病床でスケッチしたもので、「百花譜」最後の一枚である。添え書きには、
胃腸の痙攣疼痛なほ去らず、家居臥療。安田、比留間この花を持ちて来り、後これを寫す。運勢たどたどし
とあるが、その文字もすでに力弱く、いたましい。

●杢太郎の業績
○文学者木下杢太郎
文芸誌「スバル」を中心に活動
詩「食後の唄」
小説「荒布橋」
紀行文「クウバ紀行」
戯曲「和泉屋染物店」
評論「芸林間歩」

○医学者太田正雄(杢太郎の本名)
東京帝国大学教授皮膚科太田母斑(生太郎の本名から命名)
ハンセン病の研究 糸状菌(かび)の研究 太田・ランゲロン分類法の完成
フランス政府よりレジョン・ドヌール勲章を受ける

○その他
植物図譜「百花譜」
美術翻訳「日本遣欧使者記」
キリシタン研究「えすぱにや・ぼるつがる記」

●生家「米麹」
木下杢太郎(本名・太田正雄)は、商家「米麹」に、七人兄弟の末子として生まれた。
「米麹」は、1835(天保6)年、杢太郎の祖父にあたる初代・惣五郎が創業した頃は、その名のとおり米や塩を扱っていたが、杢太郎の父である二代目・惣五郎の代になると書籍や浮世絵など幅広く取り扱うようになった。商売は繁盛し、地元でも有数の名家であった。
家には江戸時代の絵草紙があり、書籍も販売していたため、少年期から江戸文化と明治の近代文化を吸収していった。
杢太郎自身「我々の通つて来た時代」という文章の中で、
文學藝術に對する愛はやはり或る遺傳的の素質と境遇とに原く。年の間隔のやや違ふ予の姉、兄たちにもさう云ふ素質があつた。彼等は予の青年時代に予の文學を好むことを嫌ったが、予の之を好むに至つたのは彼等が既にさう云ふ雰圍気を予の周圍に作つたのが原因の一半になつてゐる。(中略)東京或は横濱から毎夏闘省する姉たちは薄暮の海岸で英語の歌を歌って聴かせてくれた。
予のエキゾチスムはこの時に育まれた。
と記している。

「眞にはわれに父にあらず、されどわれは父といひ母のいふの外名稱あるを知らざる也、その外に思ふこと能はざる也、よしされば我は老いたる母といひ、父といひ母といふにて其差をつけむ」 杢太郎日記・1903(明治36)年12月25日

●六人の姉兄たち
杢太郎には四人の姉と二人の兄がいる。
長姉・よしは夫・惣兵衛と共に米惣を継ぎ、商売を繁栄させた。
次姉・きん(明治元年生)と三姉・たけ(明治3年生)は、東京に寄宿し、当時はまだ珍しかった女学校へすでに通っている。
四姉・くには地元の医師・井原家の養女となった。
長兄・賢治郎は静岡県議会議員や伊東市長などを歴任した地方政治家である。
次兄・圓三は関東大震災後に帝都復興院士木局長となり、現在の東京の基礎を築いた。いずれも優秀な姉兄であり、杢太郎はその影響を色濃く受けて育った。

「郷里父母兄弟あり彼等われを待つこと猫を愛する女児の如し、抱擁死に至らしめざればやまず」 杢太郎日記 1906(明治39)年1月15日

●伊東の奇跡
杢太郎が生まれた明治時代の伊東は、陸路・海路どちらをとっても東京まで丸一日かかる土地だった。このような時代にあって、これだけの傑出した人物を輩出した「米惣」は、まさしく驚嘆すべき伊東の奇跡であった。

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