大隈重信生家 (58 画像)
●大隈記念館
当館は、シュタイナー(ドイツ)の建築理念「内的精神を宿すものの表れが建築」という考えや、ガウディ(スペイン)の「色は生命である」、エストベリ(スウェーデン)の「建築は総合的芸術」という理念のもとに今井兼次が設計した秀作である。
一見奇異な感じを抱かせるが、この建物は大隈重信のからだと精神、風格と呑気を表現しており、建物自体が大隈の人間像・人間愛を追求した総合芸術作品である。
全体的に見ると安定した巨岩に見え、建物の外壁左右の部分は、がっしりと張り出したカーブで描かれ、佐賀の県木である楠木の根幹と、大隈のからだを重ね合わせて大隈のどっしりとして動かざる姿を表している。
建物の外壁の向かって左の部分にある大きな穴は、大隈が国粋主義者の来島恒喜に爆裂弾を投げられて負傷し、脚を切断して隻脚(かたあし)になったのを表している。
正面二段窓の赤色ステンドグラスは、大隈が早大総長時代愛用したえび茶色のガウン(早稲田のスクールカラー)を、濃い赤色の菱形は早稲田大学の角帽(ざぶとん帽子)を、窓下の壁に掘り込んだ左右対称の放物線状のえぐり部分は、大隈の目を、庇は鼻を、建物の入口は大隈の大きな口を表し、玄関ドアの取っ手の模様は大隈家の家紋「裏梅剣花菱」をそれぞれ表している。
館内に入り、正面階段部分の東の柱は「東洋文明の柱」、西の柱は「西洋文明の柱」を意味し、柱の上部をアーチ形で結び「東西文明の調和」を表している。
踊り場の頂光窓からふりそそぐ色光(青色)には、大隈に対して注がれた母三井子の「恩愛の慈光」が込められている。

●大隈重信生家
約230年前の江戸時代に建てられたもので、敷地314坪、建坪55坪の比較的大きな武家屋敷である。八太郎(幼名)が藩校弘道館の蒙養舎に入学する際(6歳)に、母三井子の希望により、それまで平屋であった建物を増築し、2階に勉強部屋を作った。昭和40年に文化財保護法により、国の史跡に指定されている。

●2階勉強部屋
階段をのぼると左手奥に梁のでっぱりを確認することができる。これは大隈が勉強中に眠くなった際、そこに頭がぶつかって目が覚めるようにという母三井子の配慮によるものといわれている。普段は開放されておらず、佐賀城下ひなまつり期間中の土日、GW、バルーンフェスタ開催期間中のみ、内部を見学することができる。


●八太郎、佐賀鍋島藩の武家に生まれる~大隈重信の家譜~
1838年、大隈重信は鍋島藩の石火矢方頭人(砲術隊長)であった父信保と母三井子(みいこ)の間に生まれた長男で、八太郎と名付けられた。2人の姉と1人の弟がいた。信保は物成米(実質的収入)120石取りという中級武士で、すでに先代の彦次郎(大隈の祖父)の代には長崎港警護を担当。彦次郎はフェートン号事件にも遭遇したが、息子の信保も役職を継いで長崎港警護の隊長として活躍した。だが信保は八太郎が13歳の時に急死。以後は母親の手で育てられることになる。
大隈は佐賀城周辺に広がる城下町のうち、東側に位置する会所小路に生まれた。佐賀平野特有の水路「クリーク」に囲まれた武家集落は、今もその風情を残している。


●大隈の人生を守った母の愛情~慈愛に満ちた母三井子~
【幼少期~少年期の大隈】
大隈の母三井子は神仏を熱心に信心し、慈愛の精神に満ちた人だった。体が弱く、利発でもなかった幼少時の八太郎を献身的に教育。その甲斐もあって15、6歳の頃には自身で餓鬼大将と言うほど活発になり、生家にはよく友人たちがよく集まった。三井子は手料理や団子、餅を作ってこれを歓待し、八太郎の友人が困っているときには助けたという。こうした母の教育が後の大隈の活躍に大きな影響を与えた。楽天的な性格も母に感化されたものと自身で語っている。

【三井子の五つの教え】
幼少時の八太郎に母三井子が諭した五つの教訓
・喧嘩をするな
・人をいじめるな
・いつも先を見て進め
・過ぎたことを振り返るな
・人が困っていたら助けよ

【政治家となった大隈が貫いた五つの信条】
・物事を楽観的に見よ
・怒るな
・愚痴を言うな
・貪るな
・世のために働け

【八太郎を導く母三井子】
喧嘩早い八太郎に対して母三井子は「喧嘩する前に南無阿弥陀仏を十回唱えなさい」と諭した。大隈が42歳の厄年を迎えるとき厄除けに蓮の糸を紡ぎ、これを西陣で育児観音の曼荼羅に織らせて全国の寺へ奉納した。後にこれを旅先で見た大隈は母の思いに触れ、掛物に向かって最敬礼したという。

【母三井子との別れ】
三井子は大隈とともに上京し、1895(明治28)年1月1日に90歳で亡くなるまで側で見守った。亡くなる前日の大晦日の晩、三井子が危篤に陥った際に大隈は母の寿命が年明けまで延びるよう祈り続けた。除夜の鐘を待ち、鏡餅を枕元に供えてまもなく、三井子は安らかに息を引き取った。


●学ぶべきことを見極め、理想を追う日々~学問への目ざめ~
【思想の基礎づくりと反骨精神】
7歳で藩校弘道館の外生寮蒙養舎に入学した八太郎は、朱子学や藩独自の葉隠を中心とした授業を受けた。四書五経を習得し16歳で内生寮(寄宿制の上級)に進んだが、型にはまった人間形成を進める朱子学に対して不満を募らせていた。

【騒乱を呼んだ大隈の話術】
内生寮にいた600人に及ぶ学生たちが教育制度の改革を唱えて運動を始めた際、18歳の大隈は所属する南寮だけでなく北寮へも出向いて自分の主張を説いた。大隈の話を面白がった北寮の学生たちがなかなか南寮に帰さなかったために乱闘騒ぎとなり、発端となった大隈も退学を命ぜられる。退学処分はその後解かれて皆復学したが、大隈は思うところあって復学を拒んだ。

【新しい学問の場を求めて】
退学騒動が起こる前から大隈は枝吉神陽の主催する義祭同盟に所属し、年長者がほとんどという環境下で天子(天皇)と万民(全国民)を直接結びつける思想を学び、尊王主義へと傾倒していった。弘道館への復学を拒否した大隈はさらに蘭学寮に入学。国学で得た精神に西洋の技術を加えた和魂洋才を目指すことになった。大隈には要領の良い部分もあり、分厚い書物などは他人に読ませて要点だけ聞き出し、辞書を引くときは凡帳面な友人に任せた。

【鍋島直正への講述から】
蘭学寮での大隈は当初、外国が日本に勝るのは軍事や機械などであると考え、砲術や科学を学んだ。しかし社会制度や憲法、歴史文化に触れるうち、その質の高さに共感を覚える。1861(文久元)年、23歳の時に蘭学寮は弘道館と合併。これを機に教官となった大隈は藩主鍋島直正の御前でオランダ建国法の一節を講述。後に「これこそじつにわたしが、立憲的思想を起こしたはじまりで、これまで多年立憲政体の設立に苦心焦慮したのは、まったくこの思想の発達であった」と語り、この頃受けた影響が、後の立憲政治確立の根本となったといえる。


●致遠館にはじまる大隈侯の人づくり~英米の文明に見いだした新しい光~
【蘭学から英学へ】
1860(万延元)年に帰朝した日米条約批准交換の正使と護衛団がもたらしたアメリカの情報は佐賀藩士たちを動揺させた。護衛の咸臨丸には蘭学寮の秀才、秀島藤之助らが乗り組んでいた。正使の乗るポーハタン号には蘭学寮の小出千之助がいて各地を見聞。もはや英語でなければ世界に通用しないと痛感し、帰国後大隈に英学の必要性を強く訴えた。藩主直正は情勢を察して1865(慶応元)年長崎に致遠館を設立し、蘭学寮から大隈をはじめ三十余名を送った。長崎には諸藩からの遊学生や外国人が往来しており、情報収集やさまざまな見聞ができた。教師フルベッキは有望な生徒として大隈と副島種臣の名を上げ、「かれらは新約全書の大部分を研究し、アメリカ合衆国憲法のだいたいを学んだ」と記している。

【拡大する致遠館】
大隈は佐賀藩の子弟だけではなく、将来的に国家運営に携わる人材をために他藩からも広く学生を集めようとした。藩庁がこれを渋ると商人たちを口説いて資金を集め、ついに自らの手で致遠館を拡張し、経営乗り出した。これに同調した多くの若者を前に大隈侯自身も英学を教授。有能な人材を育てた。その中には肥後の加屋藤太、薩摩の前田正名、加賀の高峰譲吉など、後に各分野で社会発展に貢献した人びとが含まれる。ところで20代半ばで大隈は江副美登と結婚。1863(文久3)年、25歳にで長女犬千代(後の熊子(が生まれる。美登とはその後離婚している。

【文字を書かなかった大隈】
大隈重信は文字を書かなかったことで知られる。手紙なども自ら書くことはなく、代筆者に書かせたり、用事があれば馬を飛ばして伝えに出かけたという。また、人に文字を尋ねられれば口頭で伝えるのが常だった。大隈が文字を書かなくなった理由には諸説ある。藩校弘道館に在学中、自分よりも学力の劣る友人が達筆を褒められるのを目の当たりにして、「書は以て姓名を記するに足るのみ」という信念を抱き、一生文字を書くまいと決意したためとも言われている。政府の要職であった大隈の署名こそ残っているはずであるが、現在確認できる自筆の書は「村岡氏送別詩(村岡初枝氏所蔵)」と「東京府貫属被仰付受書(宮内省蔵)」の2点のみで、その他現存している文書のほとんどは代筆によって書かれたものとされている。


●破天荒な青年時代~底知れぬ知識欲と揺るがぬ信念~
ペリーが来航し日本が大きく動揺していた時代、大隈は尊皇運動へと傾倒する一方、蘭学、英学を学び、聖書、アメリカ独立宣言、万国公法等に触れ、自らの理想を確固たるものにしていった。
その後、二度の脱藩を経て上京。キリシタンの弾圧に諸外国から猛抗議が起こった際、実力をかわれ呼ばれた議場で「国際法に反する内政干渉である」と、岩倉・木戸・大久保・伊藤らが黙する中、毅然と立ち向かい、その名を全国に知らしめた。
一生筆を取らなかった意地の強さや退学処分に至った弘道館での改革騒動にもくじけることなく学問にのめり込む姿勢。脱藩し捕らえられてもなお上京する信念の強さには眼を見張るものがある。


●脚光を浴びる大隈
ペリーの来航以来、開港地には外国人居留地が定められ、教会堂が建立された。するとそれまで地下に潜伏していた日本のキリシタンたちも禁制が解かれたと思い、信徒であることを表明しはじめる。耶蘇教は禁じられているはずであると反発する声が高まったことから大隈、井上馨らは信徒たちに改宗を迫った。信徒が応じないために処刑せよとの声も高まる中、この問題が関西まで聞こえ、1868(慶応4)年、突然大隈重信に朝命が下る。当時30歳の大隈は外国事務局判事として長崎に勤務していたが、大阪本願寺別院にて各国公使連合との談話会議に参加。キリスト教徒への処遇に激しく抗議する英国公使パークスと論争を繰り広げた。

・パークス:文明国においては信教の自由は当然である。
・大隈:それは内政干渉である。独立国の自由意志で解決すべきだ。
・パークス:信徒を酷刑に処するのは非人道的だ。
・大隈:欧州でも宗教が元で争いが起こっている。今、日本でキリスト教を公許すれば宗教間で争いが起こるかも知れないので熟慮しながら緩和すべきである。

大隈の一歩も引かないやり取りはパークスを激昂させたが、筋の通った議論によってやがてパークスの態度も和らいだ。キリスト教徒は諸藩に分けて監守することとなり、数年のうちに世間のほとぼりが冷めたところで一人も流血させることなく解放した。この一件によって大隈の外交手腕が注目されることとなった。


●大隈の2度の結婚
【ファーストレディ・綾子】 1850(嘉永3)年、旗本三枝七四郎の次女として江戸に生まれた綾子は、19歳で大隈(当時31歳)と結婚する。厳格な武家に育った綾子は美貌と気品を兼ね備え、礼儀作法も身につけてていて、その決断はいつも潔かった。
1889年に大隈が爆弾を被弾した際も、一方を受けると狼狽することもなく看護の用意をさせ、医師に右脚切断の必要性を説かれるとすぐに決断した。その場で自決した犯人来島の遺族に対しては永年、香華を送り続けたという。また、気配りに満ちた綾子夫人は洞察力が鋭く、几帳面だった。大隈宛の大量の書類を差出人別に整理しており、そんな内助の功によって大隈は数々の偉業を成し遂げた。大隈と綾子夫人は仲が良く、どこへ行くにも連れ添った。大隈の亡くなった翌年、綾子夫人は後を追うようにこの世を去った。
【もうひとりの妻、美登】
綾子と結婚する前に大隈は一度、結婚を経験している。鹿島音成村の江副家の娘美登で、評判の美しい女性であった。大隈は佐賀と長崎の行き帰りに鹿島によく立ち寄り、美登の弟、江副廉蔵に会っていた。大隈は美登を見初め、結婚する。1863(文久3)年、大隈25歳、美登20歳ころ、娘犬千代(のちの熊子)が生まれる。大隈はこのたった一人の我が子を生涯心から愛し、慈しんだ。大隈はやがて上京。離縁の理由は明確ではないが、美登が静かに身をひいたのか、大隈の母三井子の意向もあったのか、若き日の大隈を支えた美登はその後、新たな道へと歩んでいった。三井子の世話で1871(明治4)年、鹿島藩士犬塚綱領と再婚。3人の子をもうけた(うち一人は夭折)。大隈と離縁した際に生別した熊子のことは、生涯忘れなかったであろう。美登のその後は定かでないが、鹿島の有明海を一望できる山中に墓所は確認できる。


●築地の梁山泊
三枝綾子と結婚し、パークスとの論争の翌年(1869年)、大隈は築地西本願寺脇に邸宅を構えた。連日豪傑たちが訪れ、大変な賑わいだったという。近所に居を構えていた伊藤、井上、寺島をはじめ親友の五代友厚や福地桜痴など様々な面々が行き来していた。伊藤にいたっては隣合わせで、いつも境の塀の切口よりすっと入り、大隈邸の台所から訪れていたという話が残っている。
中国の「水滸伝」になぞらえて「築地梁山泊」と呼ばれていた。


●大隈の改革断行
1870(明治3)年、参議(明治政府の重役職で、分野を限定されずに実質的に政治を主導する。薩長土肥の維新功労者などから任命された)となった大隈は各種の改革を実現する。

・鉄道敷設の実現。1872(明治5)年に新橋~横浜間が開業。
・廃藩置県の断行。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らと協力。
・陸海軍の設置、教部省の設置、学制頒布、鉄道開業式、人身売買禁止、太陽暦の採用、国立銀行条約公布、徴兵令公布など。

1873(明治6)年帰国した岩倉一行は留守中の大幅な改革に激怒し、征韓論層を楯に留守派の閣僚を辞職に追い込んだ。世に言う明治六年の政変である。大隈は大久保らと組んで政府に留まって近代化を推し進めたが、翌年の佐賀の乱で江藤ら、佐賀の盟友を失うことになった。その後大隈は財政や産業の改革を図り、通貨制度を安定させるなど近代化の基盤づくりに尽力する。やがて憲法制定や国会開設の論議が激しくなると大隈は1881(明治14)年に国会を開設すべきであると急進論を主張。これに反発する伊藤博文らは大隈の留守中に画策し、参議解職に至らしめた。下野した大隈は1882(明治15)年、立憲改進党を結成して総理となる。同年には東京専門学校(早稲田大学の前身)も創設。しかし政党が学校経営に影響してはならないとの考えからその後15年もの間、学校行事には姿を見せなかった。
1888(明治21)年以降、外相となった大隈は不平等条約の改正に尽力。しかしその内容に不満を持つ玄洋社社員来島恒喜が投げた爆弾で右脚を失う。
大隈はその後、再び外相となり農商務相を兼ねたが、1898(明治31)年には憲政党を結党し、わが国初の政党内閣、第一次大隈内閣を組織した。俗に言う隈板内閣である。しかしわずか4ヵ月で辞職。憲政本党総理となったが、大隈の活躍の舞台は次第に大学運営や文化活動へと移っていった。
1913(大正2)年大隈は旧佐賀藩主鍋島閑叟(かんそう)の銅像除幕式に出席のために帰郷。その道中で119回にわたる講演を行った。国民的人気を博していた大隈は汚職事件などで混迷する政治の中枢に再び駆り出される。
1914(大正3)年4月、第二次大隈内閣が発足。第一次世界大戦への参戦や中国への二十一箇条要求など、幾多の課題を負いながら多忙な日々を過ごした。
1922(大正11)年1月10日、84歳で死去。17日に早稲田邸で葬儀を行った後、日比谷公園で国民葬が営まれ、20万~30万人が参集したという。


●国民を魅了した大隈~民衆とともにたのしむ旅~
大隈重信は演説の名手であった。放送媒体の無かった時代、演説を通して肉声で国民に訴える機会を大隈は大切に思っていた。

【旅行講演】
大隈は全国あちこちを旅しながら講演、演説を熱心におこなった。それは自らの考えを国民に理解してもらうためであったり、募金に協力してもらうためであったりした。明治末には年間数十回に及んだ旅行講演だが、大正時代になるとその数はますます増えてゆく。大正2年9月には新潟、富山、石川、福岡の各県をまわり、79回の講演で9万7千人の聴衆を集めた。また、同年の10月~11月には佐賀に帰郷し、帰途に名古屋、大阪、四国を回遊。この間の講演は一日2~3回から多いときには9回に達し、16万7千余人が大隈の話に耳を傾けた。限られた時間にできるだけ多くの大衆に伝えようと主要駅では昼夜を問わず車窓演説を行った。その後も各地で多くの聴衆を沸かせた大隈だが、大正6年夏に持病の胆石症が再発したため、それ以降旅行演説は行わなくなり、東京での講演には応じていたという。各地で公演を行う際に大隈はその土地のことをよく知っていて話題にした。

「私の旅行は一人たのしむためではない。衆とともにたのしむためである。そのたのしみをなるべく多数にわかとうとするのだ。世には私的享楽をもっぱらにして、たのしみを衆とともにせぬものがある。私は貧乏だが、衆のために費用をつかうことは愉快である。」

【子どもと大隈】
下谷の万年町の特殊小学校を視察した際、全生徒を集めた大隈は語った。
「私は子どもがいちばんすきだ。だれでも子どもを愛するものだ。道ばたの石地蔵さんも、子どもをいちばんかわいがる。だから子どもは死んでも極楽へ行く。三つ児の魂百までという。皆さんもこの心をつづければきっと出世する。」それから大隈は生徒を膝に乗せて写真を撮った。またあるときはこの生徒たちを邸宅に招いて庭を開放し、菓子を与えて一日中遊ばせたという。


●失敗にくじけない~大隈の信念~
大隈は常に前向きであった。人生には失敗もあるということを認め、失敗もあるから成功があるのだとして、自らの苦難をもろともせず、失敗を悔いることなく次の策を練った。若き頃から晩年まで、その姿勢は一貫している。

【生命こそ信念】
「自己が国家に対して、時に必要に応じて、かくならねばならぬと信じたことについては、如何に失敗しても少しも悔いぬ。自己に十分なる満足を持っている。立派な道徳的信念をもっているから、それが機に触れて現れる。吾輩の生命も、この信念である。」と語る大隈。条約改正の内容が手ぬるいと批判を浴び、爆弾によって右脚を失ってもくじけることなく国政に従事した。

【政治における苦難】
「古来政治家の歴史には、決して成功ばかりあるものではない。失敗もある。成功失敗交々(こもごも)起こるのである。あるいは失敗の方が多いかもしれんのである。あるいは一生失敗で終わることがあるかも知れぬ。」とも語る。実際、国会開設を急進的に進めようとして解職されたり、初の政党内閣を発足させても短命に終わったりと、特に政治に関しては大隈侯も苦難の道を歩んでいる。
「対華二十一箇条要求」もまた大隈を批判する論評を招いた。第一次大戦開戦で混迷する中国大陸。そこに突きつけた要求は対外的には外交問題となり、国内でも強硬派に批判された。国家の独立に対する考え方が変わった現在でも、この要求に対しては厳しく論評されることがある。


●女の顔には髭がない~先進的な大隈侯の女性観~
「米国の重なる州では女子に参政権を与え、英国でもまたこの頃これを許したが、人類が誠に世界の永遠の平和ということを理想とするなら、今少し婦人の権利を尊重してそれに参政権ぐらいを与える方がよいであろう。男は気が荒くていかん。この世は男と女の相持ちでありながら男ばかりが権利を持っているから、そこですぐに喧嘩をし、このたびのような有史以来の大戦争をもひき起こすんである。そこへいくと女は天性優しく、同情に富み、血を見ることを最も嫌うから伏屍千里、流血杵を漂わすというようなことは、想像するさえおじけを願うに相違ない。そういうものが政治に参与する権利を得れば、おおいに男の殺伐な意見を緩和して今日よりはより多く平和の天国が近づけられるであろうじゃないか。男には髭があって顔から己に殺伐であるが、女の顔には髭がない。どこまでも平和的にできている。」
この記述を見ると、大隈が女性の柔和な精神性や感性、容姿を平和的と認め、参政権を与え、政治に参加させるべきであるとの先進的な考えを持っていたことがわかる。その思想は日本女子大学の創設にあたって委員長を務め、尽力した大隈侯の行動ともつながるものであろう。

【女子教育に関する大隈侯の考え方】
「女子の本領特質は愛情である。愛情は根源であり、社会文明の根本である。而して女子の天職もここにある」

【日本女子大学の創設に対して】
「自分は女子大学の産婆役を勤めた。生まれた子は難産であって、六年も掛かった。何しろ生まれた子は大きくて、東洋の天地には珍しい大きな子だから。数人の産婆が掛かってようやく生まれた。自分はまた保母としても骨を折った」


●文明の架け橋として日本を見る~「東西文明の調和」を唱えた大隈~
1907(明治40)年頃から大隈は「東西文明の調和」をしきりに唱えるようになった。世界の文明を東洋文明と西洋文明に分け、双方の文明が日本において合流し、調和すべきだという考え方である。大隈はその調和こそが文明の均整をもたらし、世界に真の平和をもたらすと考えていた。

【文明の調和がもたらす永遠の平和】
大隈の生きた時代を考えると、ヨーロッパからユーラシア大陸を介してやってくる文明だけでなく、太平洋を渡ってアメリカからもたらされる新しい文明もあることで、さらに東西文明の往来は激しくなったと捉えたはずである。大隈は世界の文明は常に変化し、進歩しつつあるものだと強調。東西文明の接触点はまさに日本であると説く。そして西洋の高度な文明が東洋の文明と調和して均衡が整えば争乱が止み、永遠の平和が訪れると考えたのである。

【生涯、海外へ行かなかった大隈】
首相や外相を複数回経験し、不平等条約改正などに積極的に取り組んだ大隈重信であるが、実は生涯一度も海外へ渡航することはなかった。
若き日に難解な本の読解や字引きを友人たちにまかせて自らは要点だけを聞き取って理解したように、大隈は日本を離れることなく海外の情勢を把握し、適切な判断と対策を講じていたのである。


●新進官僚として歩みだした大隈~その手腕と政変の数々~
1870(明治3)年6月、大蔵、民部を兼任し、進歩的な財政改革に尽力する一方で、実権を奪われた大久保・副島ら4名の参議は大隈の罷免を求めた。議論の末、大蔵、民部の分離と大隈の参議就任が決まったのである。
三条はこの頃、大隈について「才英敏にすぎ権謀術策に傾くきらいがあるが、愛すべき人物、逸材である」といった趣旨の書翰を佐々木に送っており、大隈の才あまっての物議が絶えなかった様子を窺うことができる。
そしてついに1881(明治14)年、薩長藩閥から反発を受けた急進的な国会開設の意見書や、開拓使官有物払下げ問題の影響を受け、10月、明治天皇巡幸の随行中に政府を追われることとなった。


●フロック・コート~条約改正への道と10月18日の悲劇~
下野後も大隈の意気は下がらず、すぐさま立憲改進党を結成、総理に就任する。翌年には東京専門学校(現在の早稲田大学)も創設した。自由民権運動の盛り上がりと共に結成された自由党と改進党であったが、政党の力を削ぎたい政府の策略もあり、次第に関係が悪化。大隈は自由党から三菱との結託を追及され、脱党を余儀なくされた。
1886(明治19)年、ノルマントン号事件により不平等条約の改正が急務となり、外交問題に強い大隈に白羽の矢が立つ。大隈は井上馨の後の外務大臣として奮闘するが、改正案が英国紙「ロンドン・タイムズ」に掲載され、外国に譲歩したものであるとして世論の非難を浴びた。家従の久松信親は大隈哀悼號の中で「十七日から十九日までの間に、どうしても候を斃さなければならないといふ風説がたち・・・十八日の朝になって四十人ばかりの壮士が早稲田の邸に押しかけて来た。」と当時の緊迫した様子を語っている。そのような状況下、1889(明治22)年10月18日夕方、首相官邸から外務省に戻った門前で玄洋社の若者、来島恒喜が投げた爆弾を被弾。右足の膝と足首に大きな傷を受け、手術によって大腿部までを失った。
命が危ぶまれるほどの怪我を負った大隈であったが、「文明の利器で以ってやられたんだからよい」「世論を覆そうとした勇気は感心」と寛大に語ったという。


●得業式送辞
諸君は数年勉強の結果、今日この名誉ある卒業証書を貰って初めて社会に出ていくが、諸君が向かう所には種々の敵がたくさんいる。道徳の腐敗あるいは社会の元気の沮喪(そそう)などは最も恐るべき敵である。この敵に向かって諸君は必ず失敗をする。成功があるかも知れないけれども、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな、度々失敗するとそれで大切な経験を得る。その経験によって成功をもって期さなければならない。ところで、この複雑な社会の大洋において、航海の羅針盤となるのは学問である。諸君は、その必要なる学問を修めたのである。
1897年東京専門学校得業式兼創立5周年祝典より

●大衆の期待に押されての二度の内閣~躍動の時代と佐賀でのひととき~
長年の諍いを乗り越え、協力しあう関係となった自由党と進歩党は1898(明治31)年に合同し、憲政党となった。大隈はここで初めて内閣総理大臣となり、板垣退助と共に初の政党内閣、隈板内閣を発足させた。その後、大隈は70歳を前に政界を引退。早稲田大学総長就任、白瀬南極探検隊の後援、女子教育への援助など、日本の文化水準を高めるために邁進する。
しかし、「権兵衛火事は早稲田のポンプでなければ消し止められない」という言葉の如く、再び指名を受け、第二次大隈内閣を発足させることとなった。その時すでに76歳。当時の男性の平均寿命が50歳に満たなかったことを考えれば、大隈の不屈の信念には驚かされるばかりである。

●敬愛された不撓不屈の精神~葬儀のキロク~
1922(大正11)年、1月10日。大隈は84歳という長い生涯の幕を閉じる。
17日、大隈邸にて朝7時から行われた告別式の後、大隈邸から国民葬が行われる日比谷公園までの沿道には、早朝にも関わらず150万人とも言われる人々がひと目彼を見送ろうとひしめき合った。国民葬へ駆けつけた民衆は、20万人とも30万人とも言われ、順番を待つ長い列が神田橋付近まで続き、明治天皇御大葬以来の参列数であったという。後日、各新聞社から葬儀の様子が報じられ「国民と関わりが深かったという点で、大隈侯の右に出るものはいない」と民衆政治家として愛された大隈の死を悼んだ。 葬儀の様子ひとつをみても、いかに大隈が国民から愛された政治家であったかを感じ取れるだろう。

・佐賀県佐賀市水ヶ江2-11-11
公式ホームページ

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