旧亀井邸 (53 画像)
亀井邸は、建築史的にみると「和洋併置式住宅」と呼ばれる様式の建物である。
この様式は、明治時代、上流階段(皇族、華族階級)の大邸宅に用いられた「和洋二館住宅」を庶民にも手が届くようにしたもので、伝統的な和館(日本建築)に洋館(西洋建築)併置して建てられている。和館と洋館、共に豊富な資金と、優れた材料、優れた技術が投入され、随所に当時流行した様々な意匠(デザイン)を取り込みつつ相当に手をかけて造りこんでいる。
例えば、洋館の外壁には当時パリから始まった植物の枝や蔓を思わせる曲線の流れを特色とするアールヌーボー様式やウィーンを起点とする水平線、垂直線を強調し、幾何学模様を多用するセセッション様式のデザインも取り入れられ、現代の左官技術においての再現は難しいデザイン様式を取り入れている。
また、和館部分には当時の町屋建築に多く見られる出桁(だしげた)造りを住宅に採用している。洋館の建具には、数寄屋建築に見られる丸窓や幾何学的形態や機能美を求めたアールデコ様式を採用し、家具には、宮城県地方独特な室内装飾である押込箪笥(桐箪笥)を大胆に用いている。
和館2階の雪見障子にも、当時の工法で作った砂磨りガラスを用いているほか、建具の取手もひとつひとつ手作りで、1階の離れには七宝焼きの取手や2階の小部屋には日本石油(現・新日本石油)の社章である「こうもり印」をかたどった鋳物の取手など、地元の固有デザインが取り入れられている。
亀井邸が建築された大正13年頃を挟む大正から昭和初期は、材料の流通が活発化し、高品質の材料が手に入りやすくなり、また、木材を加工する諸道具類(大工道具)の発達が頂点に達し、技術者(大工を初めとして、左官工、建具工、瓦屋などの関連職人を含む)の技術も最高潮に達した伝統的な日本建築の一つを頂点の時期とされている。
亀井邸は、日本と世界的なデザインとが融合した意匠を作り出しているという点で、他の類例を見ないきわめて貴重で、港町鹽竈の大正ロマンを感じる魅力的な建物である。

●亀井商店の創業と亀井文平
亀井商店(現・総合商社カメイ)は、1903(明治36)年、塩竈町門前52番地(現在の塩竈市宮町3番15号、丹六園西隣)で亀井文平が20歳で創業。文平は岩手県岩谷堂の出身。仙台市大町で雑貨商を営む高野商店での奉公を終えた後、塩竈で独立。当時の塩竈は、明治20年に東京・塩竈間を起点とする東北本線が開通し、同時に電信も開通するなど、近代都市の整備が充実し、仙台の門戸港として、また東北各地へ出入りする貨物の中継基地としてにぎわっていた。
荷揚げに便利であった祓川(現・北浜、沢乙線)に面した場所に砂糖、小麦粉、食用油、髪油、灯油やろうそくの製造販売の店を開店した。その後もキリンビールとの特約販売契約を締結するなど、折からの塩電地区の漁業、海運などの発展に合わせて成長。
明治20年に東京茅場町で火力発電所が建設され、電灯の一般営業が始まり、44年には塩竈でも電灯が利用されるようになった。
明治末期には都市部においては、ランプから電灯に代わり灯油は斜陽化しつつあったが、石油が固形燃料に比して種々の特徴を有することが広く認知されるようになり、明治30年以降、一般に使用されるようになっていった。
古くからの産油地である新潟県尼瀬(石油産業発祥の地)においては、26年に日本石油が株式会社となり、新潟県は石油ブームに沸き、こうもり印などの国産越後油の名を広めていた。
日本石油(株)は東北に販路を求めて、活況を呈していた塩竈港に着目し、当時砂糖、酒類等を手広く扱っていた遊佐一貫堂に販売を申し入れたが、同店は薬種(塩竈番紅湯(ばんこうゆ)「サンフラン湯(とう)等)も商っており、石油は臭気が強く危険な物と視られていたこともあり、販売を断ったと伝えられている。
これを聞いた文平は、この販売権を獲得することこそが亀井商店将来にわたる基礎を築くことと考え、日本石油に嘆願に努め、ついに41年に三陸沿岸の日本石油代理販売店の資格を取得した。
このころの塩竈港は、明治15年に始まる開港場の埋め立てによる港湾整備が進み、明治43年には、塩竈港は東北で初めてとなる国の重要な港湾として整備促進する第2種港湾の指定を受け、明治45年には県内で二番目となる近代的上水道(現・権現堂浄水場)の完成を契機に東北で始めてとなる製氷会社塩釜製氷(株)が設立され、いつでも氷があるということから、外来船が増加した。
大正4年には第一期築港工事が起工され、東北発となる商港としての整備が進められるなか、東京、箱館への航路も開かれ、北海道からのニシン、サケ、コンブなどが入荷し、塩竈の水産物の取引も黄金時代を迎え、水産加工、缶詰などの事業が興った。
一方で、動力化による漁船の大型化や漁具等の発達により、金華山漁場が開拓され、塩竈港の出入も頻繁になり、燃料用の石油類の需要の増加につながった。 また、第一次世界大戦による好景気と、石油内燃機関や交通機関の発達によりガソリン等の需要が進伸し、石油ブームともいえる活況を呈していた。亀井商店もこの好景気に乗り、販売前から値があがり、面白いほどの利益を上げたと伝えられている。このように、亀井商店が現在の総合商社としての基盤づくりの時代に「亀井邸」は建築されている。
亀井邸は、近代(明治・大正時代)の塩竈港の繁栄と亀井商店の隆盛を象徴した歴史的建造物である。

・宮城県塩竈市宮町5-5
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system