斎藤緑雨住居跡 (3 画像)
明治時代の作家斎藤緑雨は1867(慶応3)年に伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)に父斎藤利光、母のぶの長男(本名は賢)として生まれた。1876(明治9)年に一家で上京し、深川、本所千歳町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となったことから、本所緑町(現緑2丁目)の藤堂家邸内に移り住んだ。上京後の緑雨は、土屋小学校(現千歳に旧在)や江東小学校(両国小学校の前身)などで学んた。緑雨は「日用帳」の中で「読書と数学はいつも高点」、「習字と画学は、いつも落第点にちか(近)かり」と回想している。12、3歳頃から上田萬年(かずとし)らと回覧雑誌を始め、14歳頃からは詩文を新聞に投稿するようになった。
明治17年、17歳の時には父とともに俳句を師事した共角堂永機の紹介で仮名垣魯文の門に入り、その縁で「今日新聞」の校正や記事収集の手伝いを始めた。この頃、社主に伴われて出かけた柳橋や新橋での見聞が江戸通人趣味につながったといわれている。翌年には坪内逍遙との親交が始まり、居住地の緑町にちなんだ緑雨のペンネームを使用するようになる。処女作は江東みどりのペンネームで明治19年に発表した「善悪押絵羽子板」で、5年後には柳橋を舞台とした「油地獄」と「かくれんぼ」で小説家としての地位を確立した。また、文芸批評でも旺盛な執筆活動を展開し、森鷗外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り出した。晩年には「眼前口頭」などの新聞連載で緑雨特有のアフォリズム(警句)を表現した。居住地を転々とした緑雨は、病気がちとなり、明治36年10月、本所横網町1丁目17番地(現横網1丁目・両国2丁目の一部)の金沢タケ方に寄寓することになった。緑雨はその家の奥の6畳で臥しがちだったようである。翌年、親友馬場孤蝶に樋口家から預かっていた一葉の遺構と日記を託し、4月13日に37歳の生涯を閉じた。親友幸田露伴は緑雨の生涯に思いを馳せ、「春暁院緑雨醒客」と戒名をつけた。

・東京都墨田区両国2-13-1

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