中島三郎助父子最後の地 (5 画像)
中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、1855(安政2)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、1868(明治元)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残した。
1931(昭和6)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。

・北海道函館市中島町36-12
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