旧伊藤伝右衛門邸 (238 画像)
明治、大正、昭和にかけて福岡県の筑豊地域は当時石炭エネルギー供給地日本一の場所だった。当時「筑豊御三家」と呼ばれた麻生、貝島、安川に続いたのが炭鉱王、伊藤伝右衛門である。
最初の妻を失った伊藤伝右衛門は1911(明治44)年に伯爵柳原前光の娘・燁子(あきこ・白蓮)を迎え入れる事となる。
50歳にして、25歳の若き花嫁を迎えることになった伝右衛門が、日本建築の粋を集めて改築したのが、この「旧伊藤伝右衛門邸」である。大正初期、昭和初期に数度の増改築が行われた。
彼が建てたこの大邸宅は新飯塚駅から遠賀川沿いに北上した長崎街道沿いに位置しており、日本庭園に面して4つの棟と3つの土蔵からなる、まるで御殿のような豪華さを放っている。
和洋折衷の旧伊藤邸内は、どの部屋も細部にまでこだわっており華麗で贅を尽くした屋敷に仕上げられている。
特に白蓮の居室(2階)は、日本庭園を一望できる見晴らしの良い部屋で、銀箔で作られた押入れや水上泰生が描いた蝶をあしらった天袋など様々な意匠がこらされており、白蓮の歓心を得るための細工さえあったとされるほど、豪華絢爛な造りとなっている。
伝右衛門と白蓮は共に約10年間の時をこの地で過ごす。白蓮は絶縁状の公開後この邸に戻る事はなくなったが、部屋はそのまま残されており、当時の様子を伺い知ることができる。
また、敷地面積約7570平方メートル、建物延床面積約1020平方メートルの邸内には、ダイヤを象った欄間のステンドグラスや広大な回遊式庭園が広がっている。

●伊藤伝右衛門と柳原白蓮
伊藤伝右衛門は、若いころは魚の行商や船頭など職を転々としながら、赤貧生活を続けるが、やがて父と手掛けた炭鉱事業が時流に乗り、のちに「筑豊の炭鉱王」と呼ばれるまでになる。順風満帆と思えた伝右衛門であったが、明治43年に長年苦楽を共にした妻ハルが45歳で病に倒れ、他界する。
その後、本邸が舞台となる運命の女性、歌人・柳原白蓮(びゃくれん)と再婚する事になった。柳原白蓮の本名を燁子(あきこ)といい、燁子は大正天皇の従妹にあたる。当時の柳原家は資金難に陥っており、燁子は兄の柳原義光が貴族議員に出馬するための資金が必要だったため、炭鉱王の莫大な資金と引き換えに「売られた」政略結婚として当時騒ぎ立てられた。
伝右衛門は白蓮を迎え入れる為、旧伊藤伝右衛門邸の改築を行う。敷地面積約2300坪という敷地に、部屋数25という広大な家屋を設けたのであった。しかも、その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという、細やかな美の技法に満ちている。 長押(なげし)に施された精巧な木彫、落ち着いた雰囲気の聚楽壁(じゅらくかべ)、帯地をほどいて埋め込んだ壁に竹を組んで作られた網代(あじろ)天井等、まさに贅を尽くした豪邸である。特に二階の白蓮の居室には、竹の節だけを残した欄間や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、白蓮好みに仕上げている。また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は白蓮に精一杯気を遣っていた。
しかし、その一方で伝右衛門は昔から続く女遊びが収まらず、さらに25歳という年の差もあり、二人の心には結ばれることのない溝が生まれていく。それでも伝右衛門は愛する白蓮のために何冊も歌集を出版し、白蓮も病に倒れた伝右衛門の看病もしたといわれている。
そんな日々が続く中、白蓮35歳のときに、7歳年下であった雑誌「解放」の記者・宮崎龍介と恋に落ちる。勉学に勤しむ暇もなく炭坑一筋で続けてきた無学の伝右衛門と比べ、東大出のインテリで年下の龍介に白蓮は心惹かれる。当時であれば姦通罪。この罪の意識がさらに二人の恋を燃え上がらせる事になる。
意を決した白蓮は新聞社を通して伝右衛門に「公開絶縁状」を叩きつけた。「筑紫の女王」と呼ばれた歌人白蓮が炭鉱王伝右衛門を捨て、7歳年下の愛人との駆け落ちするというスキャンダラスな出来事に世の中は騒然となった。その後、伊藤邸に白蓮は戻ることなく、結婚して10年、すれ違い続けた二人の恋物語も終わりをむかえた。
その後、伝右衛門は叩きつけられた絶縁状に対し「末代まで一言の弁明も無用」と口を閉ざし、財界人として精力的な働きを続け、伊藤家育英会の奨学金制度なども設けて後進の育成も図り、その生涯に幕を下ろす。
彼の死後、この屋敷は一度売却され、数年前には取り壊しなどの方針も検討されていた。
しかし、文化遺産として存続を求める飯塚市民の署名運動などによって飯塚市に譲渡が決まり、1年余りの補修を経て、一般公開されている。

・福岡県飯塚市幸袋300
公式ホームページ

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