藤野厳九郎記念館 (77 画像)
藤野厳九郎は、1874年にあわら市(旧芦原町下番)の地に生まれ、福井中学校を経て愛知医学校を卒業した後、仙台医学専門学校に招かれて解剖学の教授となった。
1904年、清国(現在の中国)の留学生周樹人(のちの魯迅)が来日して、この医学専門学校に入学した。そこで藤野の講義を受け、その講義ノートを藤野が朱筆で丁寧に添削するなど熱心に指導したことから、二人の師弟愛が始まった。
2年程の短い留学期間だったが、日清戦争後の中国人を軽視する社会風潮の中にあって、藤野の親切な指導は魯迅の脳裏に深く刻まれた。その後、魯迅は医学から文学へ転換して文筆によって祖国を救済しようと決心し、帰国して文学家、思想家として活躍したが、「終生の恩師」として藤野先生を尊敬していた。
惜別の二字を写真に書き周樹人(後の魯迅)に渡して別れた藤野はその後、1915(大正4)年に東北帝国大学医学専門部教授の職を辞し、しばらく東京に在住して、郷里の下番に帰る。
しかしまもなくりか夫人を病気で失い、憂愁の日がつづいた1918(大正7)年に井田文と再婚してからは、三国町竪36番地に移り、耳鼻咽喉科を開業したが、翌年兄の明二郎が死去したため再び下番に帰り、医師として村民の診療に専念する。やがて1933(昭和8)年にいたり、住居を雄島村宿第35号14番地に移し、医業は中番の柳川九郎兵衛宅の一室を借りて1945(昭和20)年まで診療に当たったが、同年8月11日下番の土田円右エ門宅において惜しまれながら医学者と臨床医としての一生を終わる。
この住宅は宿在住のころの建物で、藤野と文夫人、それに子息二人との在りし日の生活を偲ぶのに十分な建物である。
藤野のふるさとあわら市と文豪魯迅のふるさと中国浙江省紹興市は、2人の関係が礎となり、友好市の議定書を締結し、この友愛の精神を永遠に継承、発展させることを誓った。

「病気は正月も休まんで わしもやすんだらあかん」

●魯迅著「藤野先生」より
私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。(中略)彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。(中略)ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、やせた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。

・福井県あわら市温泉1-203
公式ホームページ

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