グリフィス記念館 (39 画像)
記念館の建物は、福井藩が理化学教師として招いた米国人W.E.グリフィスのために1871(明治4)年に建てた後、明治6年に焼失した家の外観を、わずかに残された資料から復元したものである。館内は明治時代の洋館を参考にした、展示・休憩スペースである。
福井藩はグリフィスたち外国人の居住用に洋風の家を二軒完成させた。グリフィスが福井で7か月暮らした武家屋敷(現・北ノ庄城址前)から、新築成った洋風家屋に引っ越して住んだのは4か月。その家はグリフィスが東京に移った翌年に焼失したが、並んで建っていた同じデザインの家が昭和11年まで残っていた。その外観写真が復元資料になった。家の場所は幸橋の北詰で(当館近くの桜橋の東)、グリフィス・日下部太郎像が立つ付近である。対岸の毛矢町には由利公正が住んでいて、一家でグリフィスと親交があった。
「異人館」と呼ばれたその家の特徴は、時代を映す和洋混淆のデザインにある。熱帯地域の日差しの強い気候に対応して生じた様式は、一般に「ベランダ・コロニアル」と呼ばれる。西洋文化の流入を受けつつ、煉瓦・石造の技法や「洋館」の様式が未消化の段階で、日本の大工・左官がもてる技術と創造性をいかんなく発揮した過渡期。その時期の現存する洋風建築の姿は、様式にとらわれない自由からそれぞれに魅力があるが、「洋館」ならざるゆえか残存は稀少である。瓦の目地に漆喰を盛った海鼠壁(なまこかべ)とベランダが融和する当館の外観は、明治元年に東京築地に建てられたホテルにもみられる維新期独特のデザインで、現存建築もなく貴重である。放縦に走らない表現および全体の均整をもたらす美意識が魅力を高めている。
明治4年春、福井藩に雇用された米国人教師ウィリアムE.グリフィスが越前の土を踏む。以後11か月にわたる滞在中、廃藩という予期せぬ事態を体験しながらも、福井の科学教育の礎を築き、多くの教え子が明治の各界で活躍することとなる。この福井とグリフィスとの縁は来日前、同世代の藩士日下部太郎との出会いと別れにはじまる。以後この地で、由利公正ら維新の時代を生きた士たちと理想を語り合い、彼を慕った教え子たちと半世紀を経て再会する昭和2年を経て、関係は今日まで脈々と続いてきた。グリフィスは帰国後の長い人生を通じて、日本の歴史・文化を世界に紹介する多くの著作を残したが、その創作の源泉となったのもまた、短くも鮮烈な福井での日々であった。
青年グリフィスは福井滞在中、藩校明新館で、契約科目の理化学だけでなく、外国語など持てる知識・教養を生徒に惜しみなく伝えようとした。藩が彼に提供した居宅で夜でも教え、新築の洋風住宅に移ってからは何人ものこどもたちを同居させている。
教育と同時に、日本文化の探求にも熱心だった。町を散策し郊外に遊び、三国まで川を下り、白山にも登った。明治7年(1874)に帰国するまで、東京で教職にあった2年半の間も好奇心は尽きることなく、多くの人と交わり、福沢諭吉たちの学会「明六社」にも参加した。
ラトガースで福井藩の留学生日下部太郎を知り、来日後由利公正や松平春嶽と親しく交流したグリフィスは、福井で廃藩という革命の瞬間を目撃して後、その鮮烈な印象を決して忘れず、維新に至る日本の歴史と思想を真剣に学んだ。それは彼の代表作“The Mikado's Empire"(1876)に結実し、永く内外でグリフィスこそ日本の真の理解者と認識された。

●ウイリアム・エリオット・グリフィス(1843~1928)
アメリカの牧師、作家。フィラデルフィア生まれ。1869(明治2)年ニュージャージー州の名門ラトガース大学の科学課程を優秀な成績で卒業。その後牧師になるため神学校に通っていた時、東京在住の宣教師G.フルベッキを日本に派遣した教会から、福井に藩校の理化学教師として赴任することを要請され、27歳で来日。1871(明治4)年3月から約11ヶ月間福井に滞在し、多くの見聞を得る。その経験を生かし、帰国後牧師業の傍ら日本に関する多くの著作を発表。アメリカにおける知日派の第一人者と目された。
その著作は日本の要人たちにも高く評価され、要請を受けて1926(大正15)年に再来日。勲三等旭日章を受け、半年かけて妻とともに日本全土を巡った。その講演旅行のハイライトは、1927(昭和2)年4月25日から29日の福井再訪。町をあげての大歓迎を思い出に、翌年84歳で逝去した。
その後夫人が福井市に寄贈した日時計の台座部分が、2015(平成27)年に開館した記念館の敷地に移されて、今も歴史を伝えている。


●教科書づくりへの意欲
グリフィスは福井で教え始めた頃、すでに日本人向きの化学の教科書の必要性を感じていた。東京の南校(東京大学の前身)で教えるようになって、日本人向けの英語の教科書を執筆し出版した。どの教科書も石版画の挿絵が豊富で、福井での体験が取り入れられており、クリスチャンとして伝道の意図も見られる。

●お雇い理化学教師
グリフィスは1871(明治4)年2月福井藩と契約を交わし、お雇い理化学教師として来福した。教育に対する姿勢はとても熱心で、藩校の明新館で教えるだけでなく、夜も自宅で、生徒たちや町の人を集めて、様々な分野の授業を行った。
また、生徒たちもそれに応えて、真剣に取り組んだ。

●グリフィスの著書「皇国」に書かれた福井での教育活動
私の生徒は、学校で速く覚えるし一所けんめいに勉強する。
(中略)
私は学校で毎日六時間をすごす。夜、私の家で青年・医者・先生・町の人に特別に授業をする。良い教科書をきめて、地図、海図、図式、黒板を使っての説明を計画している。聴講者に時々質問をゆるす。地文学・人文地理・地学・化学・物理・生物・顕微鏡の使用・倫理・政治・西洋史・製造工業・米国社会制度・少数であるが希望者にとキリスト教を教える。
(中略)
夜の聴講者は中年の人が多いが、老人も少数いる。

●グリフィスの授業
グリフィスは化学と物理の教師として福井藩に来た。アメリカから化学薬品や器具などを取り寄せ、実験を採りいれたわかりやすい授業を行った。また、教え始めて間もなく日本人の生徒にむけた、化学の教科書の原稿を書きはじめている。明新館では、化学と物理のほかに、英語・ドイツ語・フランス語の授業も行った。
グリフィスが重要な、あるいは目立った化学実験を行うと、大きな講義室が生徒や役人でいっぱいになり、驚きと感嘆の声があがった。授業内容は、日記よりその一端を知ることができる。

●授業内容(「グリフィス日記」より抜粋
〇1871(明治4)年
・3月15日 水の研究と実験を始めた。生徒は大いに興味をもった。
・3月23日 酸素の実験をした。火、フラスコ、実験に気をつけた。
・4月6日 ボルタ電池を使って水を分解することに成功した。
・5月29日 二酸化炭素をいろんな形で講義をした。
・7月4日 硫化水素の実験をした。水素と酸素を爆発させてみんなを飛び上がらせた。
・10月7日 写真と銀メッキの方法の講義をした。
・10月10日 物理を教え始めた、慣性の実験は大成功だった。
・10月13日 吹管を使って実験をした。
・10月25日 小さな蒸気機関の模型に学生達はよろこんだ。
・11月15日 排気ポンプを使って実験をした。
・11月18日 磁力の講義をした。
・11月25日 磁電気の講義と発電機を使って実験をした。
・12月2日 茶について講義と実験をした。
・12月13日 小気球に化学所の生徒はおどろいた。
・12月21日 錫(すず)の実験・未知の化合物の検査をした。
・12月22日 血液の循環について講義をした。
〇1872(明治5)年
・1月11日 水素、酸素、メタンを作った。
・1月13日 気球について講義、小さな気球を見せる。マッチの作り方を教える。

・福井県福井市中央3-5-4
公式ホームページ

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