網野菊旧居 (10 画像)
網野菊(あみのきく、1900年1月16日~1978年5月15日)は大正末期から昭和にかけて活躍した小説家。志賀直哉に見出され、「光子」で文壇に登場。自らの生い立ちや度重なる不幸を材とした私小説に徹し、その重厚な文体が、戦後高く評価されて多数の賞を受けた。日本芸術院会員。別名・相原菊子。
「網野菊全集第三巻」所収「奈良の思い出」(昭和16年8月)には、その借家のことが次のように記されている。


先頃久しぶりで奈良へ行ったら、奈良が余りに変っていないので驚いた。昔住んで居た時の儘の町通りなど見ると、よその土地へ旅行に来て居るという気がしなかった。
奈良では私は初め一年半程は破石(わりいし)町に住んで居た。直ぐ前の側は閼伽井(あかい)町で、私は其の頃は「わり石」という町名より「閼伽井町」という町名の方が好きだったので、よそへの通信には閼伽井町と書いた。今だったら、寧ろ、破石という方が好きな位だが。奈良に来て其の家がみつかる前、又、みつかってからも一月程は志賀先生のお宅(その頃は幸町にあった)に泊めて戴いていた。間借りするつもりだったが、中々適当なのがみつからなくて、結局、三軒建ての新築の東のはずれの家を借りた。二階が二た間、下が三間で家賃は二十三円だった。私の住居探しには、志賀先生の御一家中が散歩がてら行って下さった。その一行の中には当時矢張り奈良に住んで居られた武者小路さんが加わって下さった(と云うより、加えさせられていらっしたという方が適切である)事もある。
二十三円の家は雑な家だったが、新しいのと、明るいのとが取り得であった。二階は東から南にかけてズッとガラス窓になって居るので、東の窓からは若草山と御蓋(みかさの)森、南の窓からは高円山が、居ながら見えた。此の家はT字形の道の角にあり、東の小道を隔てた一角は此の家の持主で近所に住んでいるお米屋さんの畑で、大根や菜などが作ってあり、大家さんは私に「勝手に畑に入って何でもとって行っていい。」と合鍵をくれたが、私は遠慮深さからよりも面倒くささから一度も取りには入らなかった。尚、大家さんは時々若草山辺りでとって来た蕨など私にくれたり、夏私が東京へ帰省して信州の山へ行って居る時など、大きな西瓜を二つも山へ送ってくれたりした。私が、「いい大家さんです。」と云ったら、志賀先生は、「大家さんもいい大家さんだが、店子も中々いい店子だ、家賃をキチンと払うから。」と云って笑われた。(以下略)


後に網野は、氷室神社東の、ミルクホールを開業した沢山家の離れに住むことになるが、網野の住んだ松尾家の借家は、昔の面影のまま現存している。

・奈良県奈良市高畑町659-1

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