高橋是清邸 (98 画像)
高橋是清邸は、赤坂にあった政治家の高橋是清邸の主屋部分を移築したものである。是清は本所押上から赤坂へと移り住み、1902(明治35)年にこの家が完成してから1936(昭和11)年の2・26事件で暗殺されるまでの30年あまりをこの家で過ごした。
当時の赤坂は江戸時代の面影を残し、大名の屋敷地が多数残されていたため郊外の趣があったという。約6600平方メートル(約2000坪)の是清邸の敷地も、元は丹波篠山(ささやま)藩青山家の中屋敷跡地であった。是清と家族は、はじめのうち敷地内の古い屋敷で過ごし、この家の完成を待った。是清の自伝には、明治35年元旦のこととして「この日、かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下を除いて、ほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越した。そうして家内一同新食堂にて屠蘇(とそ)や雑煮を祝い、久し振りで、人間の住居らしい我が家に信念を迎えた」と記されている。赤坂にあったころは、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
この家と屋敷地等は是清の亡くなったあと1938年に東京市に寄贈され主屋部分は、3年後に是清の眠る多摩霊園に移築され休憩所として使用された。また屋敷地は公園となり、元あった倉庫を改修し、高橋是清翁記念館とした。建物は、太平洋戦争で罹災(りさい)し現存しておらず、現在は高橋是清翁記念公園となっている。
多忙な日々の中で是清はこの家に帰り、家族との団欒や夕食をなによりの楽しみにしたと言われる。また、晩年は孫をつれて庭を散歩する姿が見かけられたという。夕食後は風呂を浴び、2階の寝室と書斎で、ラジオを聞いたり読書をしたりして過ごした。そして、この2階の部屋で是清は暗殺され、波乱に満ちた生涯を閉じたのである。
両折(もろおり)の桟唐戸を持つ玄関から建物に入ると、左に食堂がある。この洋間は南に出窓を持ち、床板は寄木張りとしているが、長押や欄間などの伝統的な要素も多くあり、和洋折衷の性格を持っている。
主屋は、仏間とその前室を除くすべての部屋に床の間を廃している。これらの床の間は、それぞれの部屋の性格に応じて形式も少しずつ異なっており、この建物の見どころのひとつである。格天井をもつ仏間には火灯(かとう)窓がおかれ、玄関入口の桟唐戸とともに、禅宗寺院のデザインからの影響をうかがわせる。
1階南側の10畳2室は、美しい庭園を風景として取り込む、明るく広々とした空間である。これら2室の天井は、天井の棹縁が少なく、天井板の幅も他の部屋と比べて広いことなどから、この住宅の中でも主要な部屋であったと考えられる。
一方、2階は総じて柱が少なく、建築の構造が合理化し、自由な空間が実現される近代和風の一つの特質を示しているといえる。
建物全体に化粧材として良質の栂(つが)が用いられていることも特徴の一つである。また、随所に見られる硝子は、建築史の上でも初期の事例の一つであり、表面のゆがみが、時代を物語っている。

●高橋是清
高橋是清は、1854(安政元)年に幕府の御用絵師・川村庄右衛門の子として江戸の芝で生まれた。生後間もなく江戸勤番の仙台藩足軽、高橋家に里子に出されそのままの養子となった。藩に選ばれて、ローマ字で馴染み深い医学者のヘボン博士のもとでの英語修学を命じられ、次いで1867(慶応3)年、14歳で藩からアメリカ留学を命じられ渡米。だが、事情不安内につけこまれた是清はそれと知らぬまま自身の売買契約書にサインして奴隷の境遇に陥る。翌年、苦労の末日本に帰り着き、大学南校(東京大学の前身)に入学、英語が堪能なことから教官の職を得る。だが、たちまち茶屋遊びを覚え、その放蕩が知れて退職し、箱屋(三味線持ち)にまで身を持ち崩した。一時唐津の英語学校に都落ちしたあと、19歳で再び上京。官庁に入り特許制度視察のため欧米に派遣される。この時得た経済新知識が、財政家・高橋是清の基となったという。
ここまででも十分波乱万丈の是清の歩みだが、36歳の時、詐欺に引っ掛かってペルーの銀鉱山経営に頓挫し、無一文になるという悲惨がまたまた彼を襲う。失意の底に沈んだ是清を拾ってくれたのは「三菱の三傑」といわれた川田小一郎。当時日銀総裁を務めていた川田は、是清を日本銀行に入行させた。
1904(明治37)年に勃発した日露戦争で是清はめざましい活躍をみせる。戦費が大幅に不足していた日本は、外貨の募集を急務としていた。政府は日銀副総裁の是清に全権を与えて、ロンドンに派遣される。是清は少年時代に鍛えた語学力を駆使して英国投資家との交渉を苦心の末まとめる。また、ロシアでのユダヤ人虐待に強い反感をもっていたユダヤ人協会会長のアメリカ資本家から大口引き受けの申し出を得る。これで一挙に事態が好転、予想以上の成果を上げたのだった。
第一次山本権兵衛内閣で大蔵大臣として入閣して以来、大蔵大臣を中心として閣僚を歴任した是清は、1921(大正10)年、原敬が東京駅で暗殺されたあとを受けて組閣したが、政友会党内をまとめ切れず、閣内不一致で約半年後に総辞職。その後も積極財政を掲げて大蔵大臣を務め、81歳にして岡田啓介内閣で7度目の大蔵大臣を務めた。インフレ抑制のため常々軍縮の必要性を説いていた是清は軍部の新規予算要求に抵抗し、これを退けた。それが陸軍の恨みを買い、1936(昭和11)年2月26日、雪景色に包まれた赤坂表町の高橋邸を約100名の陸軍青年将校らが襲撃、寝具に座す是清に7発の銃弾を浴びせた。自らを楽天家と任じて、七転び八起きの努力で困難を乗り越えてきた「ダルマさん」の最期であった。

・東京都小金井市桜町3-7-1 江戸東京たてもの園
・旧所在地:高橋是清翁記念公園(東京都港区赤坂7-3-39)
公式ホームページ

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