幸龍寺 (14 画像)
幸龍寺の創建は、1579(天正7)年徳川家康が浜松城主の時、正心院殿日幸(秀忠の乳母)の願いにより、玄龍院日偆を招いて城下の半頭町に伽藍を整え、祈願所として開山したことにはじまると伝えられる。
のちに家康が駿府へ移ると寺も移転、更に1590(天正18)年家康の関東入国の翌年、神田湯島3丁目に移った。
2代将軍秀忠は、正室・崇源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣・家光が誕生すると、鬼子母神像などを寺に奉納した。つづく家光は、浅草に約8000坪の土地を寄進し、寺は神田湯島から移転した。
5代将軍綱吉は、さらに2500坪の境内地を寄進し、3代将軍家光の側室・順正院殿(6代家宣祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり、日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛した。
1923(大正12)年の関東大震災で多くの堂宇が罹災したため、1927(昭和2)年より現在地に移転を開始し、今に至っている。大書院は、細川護立が建立したたてものを譲り受けたものである。
墓域には、順正院殿墓、旧唐津藩主小笠原家累代墓所、「江戸名所図会」の挿絵師・長谷川雪旦、雪堤父子の墓、江戸後期の随筆「嬉遊笑覧」の著者・喜多村均庭、漫才師・内海好江などの墓がある。

・東京都世田谷区北烏山5-8-1

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