無鄰庵(旧山縣有朋別邸) (272 画像)
この菴は、明治・大正時代の元老山縣有朋が、1894(明治27)年から1896(明治29)年にかけて京都に造営した別荘である。その名は、有朋が出身地の長州(現在の山口県)に建てた草庵が、隣家のない閑静な場所にあったことから名付けられたといわれる。その後、有朋は木屋町二条に別荘を構え、無鄰庵と号したが、さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え、1894(明治27)年、現在の地に無鄰菴を営んだ。
庭園(国の名勝)は、有朋自らの設計・監督により、平安神宮の庭園を手がけたことでも有名な名造園家小川治兵衛が作庭した池泉回遊式庭園で、明治時代の代表的な庭園の一つである。建物は、簡素な木造二階建ての母屋(おもや)、藪ノ内流燕菴(えんなん)を模したといわれる茶室、煉瓦造二階建ての洋館の三つから成る。
洋館は1898(明治31)年5月の建立であるが、2階には、江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、ここで1903(明治36)年4月21日、元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の四者によって日露開戦直前のわが国の外交方針を決める会議(無鄰菴会議)が開かれている。今日でも、この部屋には、花鳥文様の格天井、椅子、テーブルなどの家具が残り、当時の趣を伝えている。
有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し、多忙な公的生活の少しの合間にも夫人を伴ってしばしば訪れた。有朋は、1922(大正11)年に83歳で亡くなり、その後、無鄰菴は1941(昭和16)年に京都市に寄贈され、現在同市の管理となっている。また、昭和26(1951)年には、庭園が国の「名勝」に指定されている。

●山縣の感性を読み取った庭園管理の手法
山縣は無鄰菴庭園を作庭するにあたり、京都の伝統的な作風を好まず自然風の庭園を望んだ。山縣自らが指示した以下の旨が「続江湖快心録」にみえる。
・コケの代わりに芝生を張る
・瀑布の岩石の間にシダを植える
・京都では庭木としてあまり使われることのなかったモミを植える
・水が滞留する池ではなく流れを施す
また「京華林泉帖」に掲載されている写真を見ると芝生が伸び、野草が生え、まるで本当の野原のような空間が写し出されており、芝生をきれいに刈り揃える現代の維持管理とは明らかに異なる感性や野趣を尊重する美意識を読み取ることができる。
作庭より120年ほど経過した現在の無鄰菴庭園の育成管理においては、施主である山縣の作庭当時の構想を尊重し、その感性を読み取り、現代の感覚の違いを見極めるよう努めるとともに、庭園を取り巻く環境や生態の変化を考慮しつつ、現代に相応しい景色とするため、特に以下の項目について重点的な管理に取り組んでいる。

●修復剪定による主山としての東山の顕在化
山縣の東山に対する考え方が「続江湖快心録」に記されている。
「然しこう見渡した處で、此庭園の主山といふは喃(のう)、此前に青く聳へてゐる東山である。而してこの庭園は此山の根が出ばつた處にあるので、瀑布の水も此主山から出て来たものとする。さすれば石の配置、樹木の栽方(うえかた)、皆これから割出して来なければならんじやないか喃」
この発言から、東山を主山として導き出された地割によって庭園が構成されていることがうかがえる。
庭園の外縁部には作庭当初、樹高1.5m程のモミが植えられ、敷地南西部にある茶室縁側からは比叡山を望むこともできる閑静な環境であった。しかしその後、近隣の市街地化に伴い庭園周辺に建造物が並び立つようになり、それらを隠すために庭園の外縁部の樹高が従前より高く設定されるようになった。
時の流れと共に樹木は大きく成長し、近年では手入れが行き届かなくなり、特に庭園の外縁部の樹木の上部が繁茂した状態が続いた。林床には十分な光が届かず、樹木の中程から下部にかけて枝葉が生育していないため、周辺の建造物が見通せる状態となってしまっていた。そのため庭園の外縁部の高木の手前にある低木の樹高を高めに管理して外部との遮蔽を保っている状況であった。
2007(平成19)年にプロポーザル入札制度が導入されて以降、無鄰菴庭園の育成管理を行うにあたっては、繁茂した外縁部の樹木の剪定に際し、歴史的・文化的側面を考慮しながら、庭園を取り巻く現在の環境や状況に合わせる修復剪定を積極的にすすめている。
そこでは、東山が主山となるように外周の構造物を遮蔽しながら、庭園の奥行きと東山との一体感を演出するよう心がけている。東山がより大きく感じられるように、外縁部の樹木については上部を枝抜きして透かし、幹の下部まで光を入れて中枝の枝葉を繁らせたうえで樹高の頭部を切り下げ、庭園外部との遮蔽性をも向上させる手法をとっている。併せて、生垣のように面的に繁茂し絡み合った枝の絡みを解いて切り戻し、高木1本1本が単独でも見られる外縁部の樹姿へと向上させていく。
また、かつて高めに樹高管理されていた中低木についても、切り下げを行って樹高を低めに抑えた。
このように外縁部の樹木の修理剪定については、東山が主山となるように庭園の外周の構造物を遮蔽しながら、庭園に奥行きを持たせて、その先に連なる東山との一体感を演習するよう心掛けている。

●山縣の美意識を踏まえた芝生と野花の育成管理
庭園内に植えられている石碑「御賜稚松乃木」には以下の一文があり、山縣が無鄰菴で過ごし楽しんだ様子が記されている。
「苔の青みたる中に名も知らぬ草の花の咲出たるもめずらし…」
山縣が現在の庭園の維持管理では雑草として抜き取られる自然に咲く野花を庭園の構成要素の一つして愛でる対象としていたことがわかり、現代とは違った感性や美意識で庭園が成立していることもうかがうことができる。
こうした感性を汲み取って、無鄰菴の特色の一つである開放的な芝生空間の育成管理については、定期的・機械的には刈らないようにしている。
年間を通して生育している野花の種類と開花時期などを把握し、季節や場所に応じた手入れの手法を見極めることに努めている。同じ草引きでも、雑草を手で抜く磁器、野花が咲き終わり種を落としたものを手で抜く時期、機械で芝生を刈る時期などを把握し、その場所に応じて野草を残し密度を調整している。
また、景石や低木周り、主屋からの距離に応じて芝生の長さを変えるなど、山縣が眺めていたであろう野花が咲く情景に想いを馳せながら、野趣あふれる芝生空間となるように心掛けている。

●山縣の庭園感の変化を捉えたコケの育成管理
無鄰菴庭園の立地は山裾に位置し、林冠がやや閉じており、琵琶湖疏水から引き込まれる流れの影響によって空中湿度が高く保たれ、もともとコケが生育しやすい環境である。だが、「続江湖快心録」には以下の一文があり、山縣が庭園に関して自らの見識を持っており、作庭当初はコケより芝生を好んでいたことが分かる。
「…苔によつては面白くないから、私は断じて芝を栽ることにした。…彼方は鬼芝を栽てそれで時々刈せる、…」
作庭当初には楓樹林内にも芝生が植栽されたと類推されるが、「続江湖快心録」には以下の一文がみえ芝生からコケへ遷移したと考えられる。
「楓樹並に岩石の配置また面白し。侯は一の平面石の苔の下低く没せるを指ざし、曰く、之は据ゑた時はよかつたが、苔が上りをつて低くなつたから困つているのだ。」
そして、「御賜稚松乃記」に記された以下の文言から、愛でる対象がコケに変化してきたことがうかがえる。
「苔の青みたる中に名も知らぬ草の花の咲出たるもめずらし…」
山縣は作庭時に構想した庭園の景色が、自然の織りなす経年の遷移により変化する情景を懐深く柔軟に受け入れ、新たな趣を見いだし、自己の感性を育んでいったと考えられる。
現在、無鄰菴庭園には50種以上の様々なコケが生育していることがわかっている。その中でスギコケには、外観では区別がつきににくい生態の異なるオオスギゴケとウマスギゴケの2種類がある。オオスギゴケは水辺や林床のやや薄暗い場所、特に樹幹を流れる雨水(樹幹流)を集めやすい樹木の根元に群植するが、ウマスギゴケは林冠の開いたやや明るい場所を好む。
幾種類ものコケが重なり生育する場所の育成管理では、劣勢であるスギゴケの生育範囲を保護するために、優勢しているハイゴケなどを取り除いている。
また、アカウロコゴケも生育しており、このコケは大雨などの際に地表を雨水が流れると簡単に剥れてしまうため、剥れた跡地の表土が流失して裸地化を引き起こす可能性がある。そこで、アカウロコゴケの群落の中に、スギゴケ保護のために一旦除去したハイゴケなどを混植し、表土の流出防止を図っている。
このように、庭園内には生育環境の異なる多種のコケが生育している。維管束をもたないコケの生育は微細な環境の変化によって左右されるため、樹木を剪定する際にも、林床に生育するコケの好む生育環境を把握し、明るい場所を好むものには日射が当たるよう、乾燥に弱いものには日照を避けるよう育成管理を心掛けている。

・京都府京都市左京区南禅寺草川町31
公式ホームページ

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