魯山人寓居跡 いろは草庵 (68 画像)
「魯山人寓居跡いろは草庵」は当時福田大観と名乗った北大路魯山人が大正4年の秋から約半年間生活した場所である。この家は吉野屋旅館の元別荘で、木造瓦葺2階建ての母屋は、明治初期の1870年代に建てられたと言われ、木造二階建、瓦葺、建築面積72㎡。切妻に煙出の小屋根を取り入れている。紅殻は鉄分を含み、耐久性が強いことから、加賀地方の建造物(紅殻塗りの格子や壁など)によく用いられる。
山代の旦那衆には、茶人や、書画・骨董などに造詣が深い風雅な人たちが多く、この別荘は文化サロン的な場所であった。2001年に「北大路魯山人寓居」として国登録有形文化財になり、2002年10月より「魯山人寓居跡いろは草庵」として一般公開となり、この母屋と土蔵をロビーで繋ぎ現在の「いろは草庵」の形となった。魯山人が刻字看板を彫った仕事部屋、書や絵を描いた書斎、山代の旦那衆達と語り合った囲炉裏の間、茶室・展示室(土蔵)などを公開している。

●北大路魯山人
魯山人は、1883(明治16)年3月23日、京都の上賀茂神社社家の次男として誕生、名を房次郎といった。生まれてすぐに里子に出され、その後も次々と養家が変わるという不遇の幼少時代を過ごし、6歳の頃に木版業を営む福田家の養子になった。 小学校を卒業してからは、養父・福田武造の木版の仕事を手伝いながら、独学で書と篆刻を学び、「一字書き」の名手として名を知られるようになった。
また、東京赤坂に会員制の高級料亭「星岡茶寮」を開設。「食器は料理の着物」という有名な言葉を残している。
自然界の美しさを師とし「自然美礼讃」を信条に、生涯をかけ美を追求。倣岸不遜といわれた魯山人も、山代温泉の旦那衆とは晩年まで交流があった。

●山代に来た経緯
魯山人は、小学校を卒業してからは、養父・福田武造の木版の仕事を手伝いながら、独学で書と篆刻を学び、「一字書き」の名手として名を売るようになる。成人してからは本格的に篆刻と書の勉強をするため、朝鮮・中国にわたる。帰国後、「福田大観」と名乗り、長浜や京都などで看板を彫るなど転々とし、鯖江の豪商、窪田朴了の所で金沢の細野燕台に出会う。
細野燕台は漢学者で、書や画に長けた文人でもあった。燕台は大観が彫った栖凰印譜帳を見てその腕前に惚れ込み、細野家で開かれた煎茶会で大観を三人の仲間(山代温泉の「吉野屋」旅館の主人・吉野治郎、陶芸家の須田菁華、金沢の料亭「山の尾」の主人太田多吉)に紹介する。そして、その茶席で、大観に看板を彫らせる話がまとまったといわれている。吉野治郎は大観の仕事部屋として、自らの「別荘」を提供することになった(寓居の茶室は、原呉山の設計による)。
こうして大観はこの別荘で、「吉野屋」「須田菁華窯」などの看板をいくつも彫り、仕出し屋から運ばれる料理に舌鼓を打ち、時には旦那衆たちとの歓談を楽しみながら、1915(大正4)年秋から翌年の蕨の出る頃までの約半年間、山代温泉に滞在することになった。

●魯山人と陶芸
細野燕台の家の食客となった魯山人にとって、細野家の食卓は新鮮な驚きの場であった。食卓に並ぶ食器は、燕台自らが造り、友人である山代温泉の陶芸家・須田菁華の窯で焼いてもらったものであった。
家庭の温かみというものに縁のなかった魯山人は、大勢の家族とともに囲む食卓や器というものが、いかに食材を引き立たせるかをしみじみと実感し、「まるで器から出汁がでているようだ」と言ったという。魯山人もまた、近江町市場で食材を買い込み、京で学んだ料理を作って細野家の人たちに振る舞った。そして、いつか自分も菁華の窯で食器を焼いてみたいと念願するようになった。
菁華窯の刻字看板が完成した11月、期待にたがわぬ素晴らしい出来映えに、菁華も燕台も大満足し、その褒美として魯山人は菁華窯に招じ入れられることになった。
はじめての上絵付けでは、書家の魯山人も紙の上のようにはいかず難儀したが、その飲み込みのよさと持ち前のセンス、大胆な運筆と筆致で周囲を驚かせた。
「別荘」の持ち主、吉野治郎は、「この男、ただ者ではない」とつぶやき、初代菁華は、魯山人の類まれな才能を、この時見抜いたと言われている。
作陶の魅力に憑かれた魯山人は、この日以来、看板を彫るかたわら、暇を見ては菁華の工房に出向き、釉薬の調合、窯の焚き方といった作陶の基礎を菁華より学んた。
昭和2年4月、魯山人は、初代須田菁華に送った弔辞で「翁は実に、当代磁器界における第一の異才なり。美しくして浮華ならず、渋くして枯淡ならず、才あり、情あり、気あり、而も識高く優に一家の風格を備えたる方に天下独歩の観あり…」と述べている。そして菁華が亡くなって28年後の1955(昭和30)年、金沢美術倶楽部で「私ハ先代菁華に教へられた」という演題で講演している。
後年、「北陸に足を向けては寝られない」と言っていたという魯山人。山代温泉やこの地での出会いは、のちの魯山人に多大な影響を与えたことがうかがえる。

●加賀の食材に魅了された魯山人
吉野屋の別荘で、看板を彫る魯山人が楽しみにしていたものの一つに、加賀の味覚があった。滞在中の1915(大正4)年の年末から新年にかけ、一時金沢に戻った魯山人は、料亭「山の尾」の主人太田多吉より、加賀料理と懐石料理を学んた。美味しいものには人一倍貪欲であった魯山人が、北陸の山代郷で開眼させられた食材には、コノワタ(海鼠の内臓)、コノコ(海鼠(なまこ)の卵巣)クチコ(海鼠の卵巣を干したもの)、香箱蟹、ずわい蟹、温泉玉子、真鱈のちり鍋、鴨鍋、スッポン、大聖寺味噌、「吉野屋」が漬けた自家製の 沢庵、早春の蕨などがあった。
特にコノコの美味しさに驚嘆した魯山人が、一桶5円もするコノコを三桶もペロリと平らげ、燕台を唖然とさせたというエピソードもあった。当時は最上の宿賃が3円の時代であったため、如何に高価な食べ物であったかが想像できる。
後の星岡茶寮時代には、美食の最たるものの一つとして、コノコのほか「吉野屋」が漬けた自家製の沢庵を取り寄せては、よく食膳に取り上げていたという。

●寓居は文化サロン
「山代の別荘は、どんな様子かね・・・」
「魯山人に会うたびに聞かれました。この家を気にしておられたのですね。」吉野辰郎氏(吉野治郎氏の孫)は懐かしそうに話していた。
この「別荘」(現いろは草庵)で魯山人は「湯の曲輪(ゆのがわ)」の老舗旅館の看板を彫った。山代の旦那衆は別荘の魯山人を訪ね、書や美術、骨董について語らい、以来別荘は山代の文化サロンとなる。初めての作陶や、料理の手ほどきをうけるなど、魯山人にとってこの「別荘」は学びと癒しの故郷であったと言える。

●細野燕台
金沢の商家に生まれ、漢学者で茶人、書や美術・骨董に造詣が深く文人として注目されていた。1915年細野家の食客となった魯山人を、山代の旦那衆に紹介した。

●吉野治郎
山代に生まれる。旅館「吉野屋」の主人。「桜栖(おうせい)」の号を持ち、本業のかたわら茶や書を嗜み、美術・骨董の世界にも精通した。人の才能を見抜く眼力を持っていた。

●初代・須田菁華
金沢の商家に生まれ、石川県立業試験場の陶磁部専門生となり陶芸の道に入り、山代温泉に菁華窯を築いた。


●北大路魯山人 年表
1883年 3月23日、京都上賀茂神社の社家北大路清操の次男として誕生。名は房次郎。生まれると直ぐに里子に出され、不遇な幼少時代を過ごす。
1886年養母に背負われ散歩に行った時に見た真っ赤な山つつじの美しさに感動。美に惹かれていく。
1903年書家を志して上京。
1904年 日本美術展覧会で隷書の「千字文」が一等賞二席を受賞。宮内大臣子爵田中光顕に買い上げられる。
1913年 京都の豪商内貴清兵衛の書生を勤め、この時京料理の味を覚える。
1915年8月書家、篆刻家としての才能を持つ魯山人(当時福田大観)は、細野家の食客となり、燕台と煎茶仲間の初代須田菁華、吉野治郎、太田多吉に出会う。
   煎茶会の席で大観は山代温泉の旅館の看板を彫ることとなる。
10月細野燕台に伴われて山代温泉へ来た大観は、「吉野屋旅館」の食客として迎えられ、提供された別荘(現いろは草庵)で看板彫刻の仕事を始める。
   初代須田菁華より陶芸の手ほどきをうける。
11月「菁華」の刻字看板完成。その見事な出来映えに菁華窯の仕事場に入ることが許され、初めて絵付けを体験する。
  書家の大観も最初は、素焼きの上では筆が思うように滑らず困惑したという。この日から看板を彫るかたわら菁華窯に通い陶芸に魅せられていく。
  初代菁華は大観の大胆で正確な筆運びに驚くと共に、陶芸に対する才能をこの時見抜いていたという。
1916年4月蕨(わらび)の出る頃まで滞在。
1921年美食倶楽部を開設。
1923年美食倶楽部で使用する食器を大量に菁華窯で制作。
1925年東京赤坂に高級料亭「星岡茶寮」を開設し、顧問兼料理長となる。
1936年星岡茶寮解雇、以来北鎌倉で作陶に専念。
1955年金澤美術倶楽部で「私ハ先代菁華に教へられた」いう演題で講演。 重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退する。
1959年76歳の生涯を終える。


・石川県加賀市山代温泉18-5
公式ホームページ

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