1883年 | 3月23日、京都上賀茂神社の社家北大路清操の次男として誕生。名は房次郎。生まれると直ぐに里子に出され、不遇な幼少時代を過ごす。 | ||
1886年 | 養母に背負われ散歩に行った時に見た真っ赤な山つつじの美しさに感動。美に惹かれていく。 | ||
1903年 | 書家を志して上京。 | ||
1904年 | 日本美術展覧会で隷書の「千字文」が一等賞二席を受賞。宮内大臣子爵田中光顕に買い上げられる。 | ||
1913年 | 京都の豪商内貴清兵衛の書生を勤め、この時京料理の味を覚える。 | ||
1915年 | 8月 | 書家、篆刻家としての才能を持つ魯山人(当時福田大観)は、細野家の食客となり、燕台と煎茶仲間の初代須田菁華、吉野治郎、太田多吉に出会う。 | |
煎茶会の席で大観は山代温泉の旅館の看板を彫ることとなる。 | |||
10月 | 細野燕台に伴われて山代温泉へ来た大観は、「吉野屋旅館」の食客として迎えられ、提供された別荘(現いろは草庵)で看板彫刻の仕事を始める。 | ||
初代須田菁華より陶芸の手ほどきをうける。 | |||
11月 | 「菁華」の刻字看板完成。その見事な出来映えに菁華窯の仕事場に入ることが許され、初めて絵付けを体験する。 | ||
書家の大観も最初は、素焼きの上では筆が思うように滑らず困惑したという。この日から看板を彫るかたわら菁華窯に通い陶芸に魅せられていく。 | |||
初代菁華は大観の大胆で正確な筆運びに驚くと共に、陶芸に対する才能をこの時見抜いていたという。 | |||
1916年 | 4月 | 蕨(わらび)の出る頃まで滞在。 | |
1921年 | 美食倶楽部を開設。 | ||
1923年 | 美食倶楽部で使用する食器を大量に菁華窯で制作。 | ||
1925年 | 東京赤坂に高級料亭「星岡茶寮」を開設し、顧問兼料理長となる。 | ||
1936年 | 星岡茶寮解雇、以来北鎌倉で作陶に専念。 | ||
1955年 | 金澤美術倶楽部で「私ハ先代菁華に教へられた」いう演題で講演。 重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を辞退する。 | ||
1959年 | 76歳の生涯を終える。 |
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