龍口寺 (21 画像)
鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢饉疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮聖人は「立正安国論」を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。
しかし、幕府は政策への中傷と受け止め「貞永式目」の「悪口の咎」に当たると解釈し、1271(文永8)年9月12日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で說法中の日蓮聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノ口の刑場に連行した。
日蓮聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノ口の刑場へ処刑中止の使者を送った。
その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、13日の子丑の刻(午前2時頃)、日蓮聖人を土牢から引き出し、敷皮石に座らせ、斬首の準備を整えた。
その瞬間、江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来たり、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し斬首の刑は中止となった。
その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ3年間流罪となったが、この大法難によって日蓮聖人は「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深め、その後、数々の重要な法門を著述した。
この霊場は、1337(延元2)年、直弟子の日法聖人が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自作祖師像を安置したのが始まりであり、日蓮聖人自ら『龍ノ口に日蓮が命をとどめおくことは法華の御故なれば、寂光土ともいうべきか」と獅子吼した随一の霊場である。

・神奈川県藤沢市片瀬3-13-37
公式ホームページ

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