青木繁旧宅 (41 画像)
日本が明治維新から近代国家へと急激に変貌していく中で、一人の天才が彗星のように現れ、一際鮮やかな光を放って駆け抜けて行った。
青木繁(1882~1911)は久留米市荘島町に生まれ、重要文化財「海の幸」「わだつみのいろこの宮」などの鮮烈な作品を世に残して、28歳の若さで波乱の生涯を閉じた。
その青木繁が多感な少年時代を過ごし、類稀な芸術の才能を育んだふるさとの家を「青木繁旧居」として復元整備し、かけがえのない市民の財産として永く後世に伝えることになった。

●青木繁
青木繁は、1882(明治15)年久留米市荘島町に父・青木康吾、母マサヨの長男として生まれている。
久留米荘島尋常小学校から久留米高等小学校、さらに久留米中学明善校(現在の明善高等学校)へと進むが、この間、家庭にあって厳しい躾を受けたらしく、その類稀な才能が育まれる。 青木は幼い頃を次のように振り返っている。「僕の家は代々藩の御茶道で、父は次男者であった。・・・兎に角やかましい父であった。・・・・この父に峻烈な気性と節操とを幼少の折から注入され、加ふるに・・・母方の祖父が父に代わって来て居て、朝夕その薫陶を受けた。・・・如何な寒中にも朝まだくらい縁側の板敷に机を持ち出して読書させられる。・・・挙措進退の一々が厳格な制規の下にあったから、まだ六七歳の幼ごころにも成人のような負けじ魂が固く養われていた。」
久留米高等小学校では坂本繁二郎が同級となり、明善校在学の頃に久留米で唯一の洋画家・森三美について絵の勉強を始め、また明善校生徒による回覧誌「画藻」に寄稿するなど、美術・文芸の才能の片鱗を見せ、芸術の道を強く志すようになる。
1899(明治32)年17歳で中学明善校を中退、6月に上京し、一端小山正太郎(明治美術会)の不同舎に入り、翌1900(明治33)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する。
ここから青木の画家としての本格的な活動と波乱の生涯が始まる。1903(明治36)年白馬会第8回展に神話画稿10数点を出品し、白馬会賞を受賞して躍脚光を浴びる。
翌1904(明治37)年東京美術学校西洋画科選科を卒業。この年、白馬会第9回展に「海の幸」を出品して、大きな反響を呼ぶ。
この頃、蒲原有明等の詩人達との交友も広まり、生涯の絶頂期を迎えることになるが、しかし生活は次第に困窮の度を増し、住まいを転々とし、精神の安定を欠くことも多くなっていった。
1905(明治38)年に福田たねとの間に一子「幸彦」(後の福田蘭童)が生まれるが、1907(明治40)年の東京府勧業博覧会に出品した渾身の作品「わだつみのいろこの宮」は三等末席に終わり、青木は落胆と審査に対する憤激をあらわにする。
この年、父廉吾が他界し、青木は福田たね・幸彦母子をたねの実家に残したまま、久留米に帰り、二度と上京することも、たねと幸彦に会うこともなかった。
青木は、久留米に帰ってからの3年半をほとんど放浪のうちに身を置き、1911(明治44)年松浦病院(福岡市)で28年の生涯を閉じた。
我が国近代絵画の珠玉の作品「海の幸」「わだつみのいろこの宮」は、青木の死から半世紀後に重要文化財に指定され、ブリヂストン美術館において今も一際鮮やかな輝きを放っている。

・福岡県久留米市荘島町431
公式ホームページ

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