子規堂(正宗寺) (85 画像)
正岡子規、本名正岡常規(つねのり)。慶応3年9月17日温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)に生まれ、まもなく湊町4丁目に転居、17歳で上京するまでここに住んだ。明治35年9月19日36歳で死去。子規17歳、我が国に入って来たベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とをかけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。やがて松山の地に初めて野球を伝えた。明治25年日本新聞社の社員となる。日清戦争に従軍記者で活躍、28年東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇にたっていた。
漱石の下宿、愚蛇仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている。新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また叙事文、写生文を提唱し当時の小説家達に影響を与えた。
1926(大正15)年この旧宅の用材をつかい、柳原極堂の記憶に基づいて、子規が17歳で上京するまでの旧居を模して正宗寺の本堂の傍らに、文学なかまであった正宗寺住職仏海(ふっかい)禅師が業績を記念して建てたのが最初の子規堂である。その後、1933(昭和8)年に寺の火災で類焼し、再興されたが、1945(昭和20)年松山大空襲によって再び寺とともに焼失した。1948(昭和23)年10月28日、埋髪塔と同じく愛媛県の「記念物・史跡」に指定された。
司馬遼太郎著「坂の上の雲」(文藝春秋刊)には、子規が秋山真之を自宅に誘い、自らが熱中する新聞や雑誌づくりに引き込もうとする様子が描かれている。
子規堂前の「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊ちゃん」でも有名である。

・愛媛県松山市末広町16-3
公式ホームページ

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