杉田定一別邸 (10 画像)
福井県初の衆議院議長で、明治期の政治家杉田鶉山(定一)は、国鉄三国線(金津~三国間、現在廃線)の敷設に尽力し、1911(明治44)年に金津駅から三国駅までの鉄道が開通した。これによって、あわら温泉の誘客数は飛躍的に伸び、温泉街も急速に発展することができたことから、鶉山は「あわら温泉の大恩人」として感謝され、当時の地元有志によってこの別荘が建てられた。內部は大幅に改修されているが、三角屋根や漆喰壁の外観デザインが残る木造の西洋建築で、1965(昭和31)年の芦原大火からも免れた大変貴重な建物と評価されている。
明治の中頃、福井県では九頭竜川をはじめ、日野川、足羽川など多くの河川が、毎年のように氾濫し、いたるところで復旧工事が行われていた。
被害額は、当時の福井県予算の30倍以上に上ることもあったほか、国から応分の支援を受けて復旧しても、翌年の台風で前年を上回る被害が発生するなど、当時水害被害全国一といわれた九頭竜川の大改修は、流域住民の悲願であった。
こうした状況を目の当たりにした杉田定一は、新しい工法による本格的な築堤こそが重要であると痛感し、政府に対し、国家事業として河川改修を行うべきことを進言した。
父仙十郎の「わが資産は郷土の皆のものだ。これを郷土の発展のために使うことを惜しむな」という遺言をそのまま自らの信念に従って実行し、当時人力に頼っていた工事に、最新のしゅんせつ船やトロッコを導入するなど、資材をなげうって事業を進めてきた結果、明治43年にこの大工事は完了した。
このとき杉田は、1300石の財産を失っていた。
一方、こよなく愛した芦原温泉と三国の発展のため、金津から三国までを結ぶ国鉄の支線敷設にも力を注いだ。
しかしながら、既に河川改修に多額の国費を投入している中で、政府に対する新たな陳情は困難と判断した定一は、わずかに残っていた田畑もこの事業のために処分してしまった。
こうして明治44年に開通した国鉄三国線は、別名杉田鉄道とも呼ばれ、芦原温泉や三国の人々は、杉田定一を郷土の恩人として讃え、その人柄を慕った。温泉街の舟津公園には鵜山の石像も建立されている。

・福井県あわら市二面
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