養浩館庭園 (178 画像)
この庭園は、数寄屋風建築や回遊式林泉庭園をそなえる江戸時代中期を代表する名園の一つである(現面積約9,500㎡)。かつては、福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「御泉水屋敷」と称されていた。御泉水屋敷の成立時期については詳らかでない点が多いのだが、元々この場所は福井藩の重臣永見右衛門の屋敷地であった所で、永見氏が2代藩主松平忠直に攻め滅ぼされてのち、3代忠昌時代に藩邸となり、芝原上水を引き込んで御泉水屋敷となったと伝えられている。
この御泉水屋敷が今見るような姿に整備されたのは7代藩主昌明(のちに吉品(よしのり)と改名、元5代藩主昌親)の時とされ、従来の御泉水屋敷である「本御泉水」の改造・整備に加え西隣に「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所としたが。吉品の歿後、その規模は元の御泉水屋敷の敷地に戻り、茶会・饗応の隻や藩主一族の休養の場、住居などとして使われたようである。また、幕末頃には洋式銃の製造所が設けられるなど時世を反映した使われ方もしたようである。
明治維新によって福井城は政府所有となるが、御泉水屋敷の敷地は引き続き松平家の所有地として、福井事務所や迎賓館としての機能を果たし、1884(明治17)年、松平春嶽によって「養浩館」と名づけられた。「養浩館」の名は明治17年(1884)、松平春嶽によってつけられた。「人に元来そなわる活力の源となる気」、転じて「大らかな心持ち」を育てることを意味するようになった孟子の言葉「浩然の気を養う」に由来すると言われている。
大正2年には大隈重信夫妻が訪れ、18代松平康荘(やすたか)夫妻と撮影した写真も残っている。養浩館は園数寄屋風建築や回遊式林泉庭園が早くから注目され、学術的にも高い評価を受けていたが、1945(昭和20)年の福井空襲により惜しくも焼失し、その後は長く本格的な修理は行われなかった。しかし庭園の池や築山、石組などの最重要部分は失われず、昭和57年に国の名勝に指定されたのを機に福井市による復原事業が決まり、1823(文政6)年に作られた「御泉水指図」を基本に学術的な調査と復原整備工事が進められ、約8年の歳月の後、平成5年に完成し、一般に公開された。
本庭園では、発掘された遺構の上に直接建築するという画期的な手法がとられ、屋敷から庭を眺める視線の高さが当時の状態に保たれている。
部屋の建具等で額縁のように切り取られた景色はいずれも美しく、庭園と建物の全てが絶妙に配されていることがわかる。

●取水
福井市の北東約8km先にある芝原郷(現永平寺町松岡)にて、九頭竜川から引き込んだ芝原上水(城下の飲料水)は一旦、庭園の南東隅にある「溜(たまり)」に貯水され、そこから暗渠により遣水の滝口へと運ばれていた。現在は、地下水の汲み上げと、池水の循環を併用している。
屋敷前には大きな池(約2,300㎡、最深部1.8m)が広がっており、座敷の土縁のすぐ先に、豊富な水が湛えられるという空間構成は、他に類を見ないものである。
また、御座ノ間をはじめとした座敷部分には、細め(3寸1分)の磨丸太や面皮柱が使われており、数寄屋造りならではの軽やかさがある。深い軒も特徴的で、穏やかなくつろぎの場を生み出している。
・磨丸太(みがきまるた)・・・樹皮をはがしてから磨いたもの
・面皮柱(めんかわばしら)・・・四隅は削らず自然の丸みを残したもの

●様式
廻遊式林泉庭園である。池を中心に遣水や渓谷などが展開し、その異なる空間が、園内のあらゆる地点から一景色として成立している。

・福井県福井市宝永3-11-36
公式ホームページ

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